トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

亀和田さんありがとう!ーかごめは伝説になったのね

週刊文春の6月3日号「テレビ健康診断」を読んで救われた。

シスターフッドと言ったら市川実日子でしょう」「名ヒロインの隣に市川実日子あり」「やはりこのドラマの最重要人物は市川実日子だ」などの言葉に共感しつつ読む。

ほんとうに、とわ子とかごめの友情はなつかしく楽しく心打たれるものだ。小学生のころ、こんな風な親友がいた人、多いと思う。それぞれ勝手なことをしているようでいて、そのくせけっこう一緒にいる。ふとしたときに傍にいる。気づいたら一緒に歩いている友達。

「信号のない横断歩道」で「渡れない」かごめの手を黙ってそっと握るとわ子。そのさりげない動作に小学生時代から大人になっても変わらないとわ子の魅力が詰まっている。とわ子を信頼して自分の手を預けるかごめの繊細な雰囲気も良い。幼い時のように大人になってからも同じことがあり、逃げようとするかごめにとわ子は横断歩道の前で追いつきその手を取るのだ。このシーンがめっちゃ好きだった。

ある日突然、昔二人で書こうとしていた漫画を描き始めるかごめ。私にはこれしかないと決めて、描き始めたのだ。そして「一晩だけでも手伝わせて」と徹夜でかごめに付き合うとわ子。なんて可愛い二人なんだ! そう、とわ子とかごめはまる子とたまちゃんに匹敵する、記憶に残る親友同士なのだ。

そして、最後の「唐突な死で、このドラマとかごめは伝説になる」という一文に涙した。

短いからと言ってその人生の意味が薄いわけがない。かごめは、その早すぎる死によって私たちの心に残るし、このドラマに大きな意味を与えるのだろう。そう思うと救われる。録ってあった第5話を観ようという勇気をもらいました。

コメの中に混ざっている白い粒は問題ないとあってひと安心

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コメを研ごうとして、半透明のコメの中に真っ白い粒が混じっていることに気づいた。一部分が白くなっているのもあれば、中には一粒全体が真っ白なものもある。大きめのそれをつまんでみると、指でつぶれる。今までに一粒くらいそんなのが混じっていたこともある気がするが、今日はけっこう白いコメの量が多い。

心配になってネットで調べてみると、ありました! 

ちゃんと、「コメの中に白い粒が混ざっている」という項目があった。

結論を言うと、心配ない。生育時の日照時間が足りないことなどにより未成熟になってしまったコメだそうだ。「粉状質粒」と名前も付いている。1~2割程度の混入率であれば炊き上がり、食感に変わりはないとある。もちろん人体にも害はないそうだ。

『珈琲いかがでしょう』最終回は永久保存もの

たぶん佳香さんという方だと思うのだが、とても素晴らしいレビューを書いておられたので、もう付け加えることもないようなものだが、大好きな作品なのでやはり一言書きたい。なので、書く。

後味の良い終わり方だった。謎も解け、みんな収まるところに収まったという感じの終わり方だ。実際にはこんな終わりはないかも知れないが、でもあってもいいのではないかと思わせてくれる。後ろ手に縛られて、垣根さんとペイを人質のようにされて、絶体絶命のところからの青山のアクションで始まる。

青山を無理にでも自分のものにしようとする三代目が哀しい。「スマートな暴力を教えてくれ」という三代目に「スマートな暴力なんかないんだよ」と叩きつけるように言う青山。他人を殴り倒すことが彼自身をどれだけ傷つけていたのかが伝わってくる。たこさんの珈琲に出会う前から彼の心は悲鳴を上げ、救いを求めていたのだ。

この場面で、三代目と垣根さんとペイが青山を取り合うのも、ちょっとコミカルでいい。その様子を見守る夕張もしぶくていい感じ。好きな場面だ。

次はたこさんの妻幸子が、青山の届けたたこさんの喉仏の骨を手の中で砕き、珈琲と共に飲み込む場面。「たこさん、一緒のお墓に入りましょう」「これでたこさんは私の一部になったわ」と言う幸子こそ最高に粋でポップだと思う。(市毛良枝さん、すてきです!)

いちばん好きなのが、幸子がお墓の予定地へみなを案内して、青山が珈琲を淹れる場面。ここで青山の珈琲を飲み、今まで珈琲の味がまったく分からなかったペイの表情がそのとき初めてやわらかくなる。(「今日俺」の時から磯村勇斗くんに注目していた私、目が高い! ついでに伊藤健太郎くん、自分がみっともないことをしたと認めて、謝り倒して、絶対に復帰してほしい。中途半端な姿勢だとこの国の大人たちは許さない気がする。頭を丸めたAKB48の女の子くらいの気概を見せてほしい。きっと嫌な思い、悔しい思いをいっぱいすることになると思うけれど、この仕事が好きなら、がんばって、頭をしゃんと上げて、やり通してほしい。あのつまづきを無駄にせず、一回り大きくなってと願わずにはいられない。)

話が逸れたが、とにかく磯村勇斗くんのぺいには母性本能をくすぐられる。どんな役をやっても魅力のある人だと思う。

ほかに好きなのは、回想のたこさんが「どうせなら粋にポップに生きたいじゃない」と言う場面。このセリフが好き。病弱な幸子、貧しいたこさん、2人ともきびしい運命を生きたのだけれど、ぜんぜん負けてない。世の中を笑い、ポップにしてやるぞという気持ち、移動コーヒー屋さんを開いて日本中の人たちにおいしい珈琲を飲ませたいと夢見る気概に打たれるし、明るい気持ちになる。若いころのたこさんも、いい。

そしてもちろん全編を通じて中村倫也が素敵。エプロン姿が最高にイケてるし、ひとつひとつの表情におばさんはいちいち癒されるのです。この漫画のような(原作が漫画だから当たり前だけれど)ストーリーにリアリティを持たせる演技力、暖かさと包容力と寂しさと哀しみと生きる覚悟と、男の魅力のほとんどを詰め込んだ、ぴったりのキャスティングでした。「珈琲いかがでしょう」というセリフをこんなに素敵に言える人はほかにいない。

 

 

スタバに居たポップな女の子に癒された

行列のスタバ。私の前に並んでいた母子の女の子がポップだった。(「珈琲いかがでしょうか」の影響でポップという言葉が大好きになった)

5歳か6歳か、そのくらい。長い髪を結んで、頭の右側にオレンジや黄色のカラフルな髪飾りをつけて、明るい若葉の色のワンピース。おまけに風船を2個持ってる。 目が合ったので微笑むと、にっこり笑ってくれた。めっちゃ可愛い! めっちゃ癒される。

こんなことで人はうんと幸せを感じるのだ。

この子に銀河系の星の数ほど良いことがありますように!

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人生の極意は「気にしない」こと

ヤフーの記事の中に美輪明宏さんの言葉が載っていて、「人生の極意は “気にしないこと” だとあった。それに関連する話。

最近つくづくと自分の顔を観る機会があって、自分がとんでもないバアサンになっていることを発見した。今は70代80代でもきれいな人が多いのに、私だけ、いつの間にか典型的な昔のバアサン顔になっていたのだ。スマホの自撮りと歯科医院の鏡は残酷だ。想像するに、ふだん家の鏡を見るときには近視のせいもあって勝手に修正した自画像を見ていたのだと思う。

ああ、これは……。このごろ連れ合いの態度が前にもまして悪いのだが、このバアサン顔のせいなのかもしれない。白内障の手術が裏目に出てしまったか。

先日も書いたことだが、このままでは気分が滅入るのでスマホにスノウというアプリを入れてみた。自撮り写真を修整したり加工してくれるアプリだ。そんなことしても意味ないという考え方もあると思うが、気分の問題である。修正した顔に近づけようと努力するのでもいいかも。

努力の結果、とてもいい写真が撮れた。さっそく保存してアルバムに入れておく。そうそう、私って本来はこういう人なんだよね。

それは、マスクをして帽子をかぶった写真だ。フィルターがかかってレトロな雰囲気。目は大きすぎず、少し切れ長に。眉はばっちり描きこんだもの。

しかし、これならとマスクを取り外して撮るともういけない。いかに修正しようとも、加工しようとも無理。顔の下半分はいかんともし難いのだった。ほうれい線、マリオネットの人形のような口元の皺、ほおが垂れ下がっているのにこけているという理不尽。どうしようもない。ああ、ちょっとでも見られる顔にするためには、もう整形するしかないのか。

しかしどこをどうするのか。一部分の修正だけでは他との釣り合いがとれずおかしくなるだろう。何度も整形を繰り返す人がいるのはそういうことではないのか。

しばらく考えて、諦めるというか、顔のことはもう気にしないことにした。これが私だから。美輪明宏さんの記事を読んでおいて良かった。気にしないと決めると一気にラクになる。

出来る範囲で努力はするが、気にしない。ほうれい線を気にするより、いつも晴れやかな表情でいること、暖かい気分でいること、アグレッシブな精神を目に込めることを心がけよう。そしてコロナが収まってからも私だけはマスクを常備しようと思う。

 

スタバ朝活は私の小さな旅ー「ソロ活女子のススメ」に思う

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午前7時台のスタバは、まだほとんど客がいない。窓際のカウンターテーブルに1人、12人掛けの大きなテーブルの隅に1人。いくつかある小さなテーブルにはまだ誰も坐っていない。そんな感じ。騒がしい物音を立てないスタッフの人たちはカウンターに近づくとひっそりと現れる。この感じがいいんだよね。

外が見える席に座って作りたての暖かい飲み物をすすると、一日が始まるんだという気分になってくる。窓の外を見知らぬ人々が通り過ぎる。私はひとりで坐っている。誰も私を知らないし、私もその人たちを知らない。みんな、どこへ行くのだろう。50センチも離れていないのに目も合わさず、どこから来てどこへ行くのか、知らない。たぶんもう二度と会うことはない。

この感じはほとんど旅だ。どの旅でも私はこういう時間を持つし、そのために旅立つのでもある。自分を取り戻す時間だ。

「ソロ活女子のススメ」で五月女恵が上司の黒田彩子に「ソロ活をするようになってから余裕ができてきたように見える」と言われていたけれど、分かる気がする。

昔、お互いにすごく思い合える友達がいた。毎日のように会い、話し、一緒にいろいろなことをした。その友達とは気を遣うことなく自然に一緒にいることができた。

そのころ、私はその友達以外の知り合いにも好かれていたように思う。心が満たされて、余裕があったからだ。

事情があってその友達と会えなくなってからもしばらくはその状態が続いていたが、5年、10年と経つにつれまたカリカリしてきた。あの落ち着いてゆったりとした気分は消え失せた。

最近気づいたのは、ひとりの時間を過ごした後はその気分がよみがえってくるということだ。その友達とはもう会えなくても、自分自身という最良の近しい友と過ごすことが出来るからだ。

自分と向き合うことを忘れさえしなければ、孤独ではない。恵のソロ活も、私の朝活も、自分自身という最高の友達の存在を思い出し、味わうための時間だと思う。そういう時間を持てば人にやさしくする余裕も出てくるのだ。

先々週、恵はセンベロでソロ活初心者の若い女性にさりげなく助け舟を出していた。すてきな光景だった。

 

観なかった「大豆田とわ子と三人の元夫」

今週は観なかった「大豆田とわ子と三人の元夫」、見た人のレビューを読んで、やっぱり観なくて良かったと思う。

例の私の嫌いな三人の女たちが「三人の元夫」を攻撃しまくるシーンがあったようだ。さらに「大豆田とわ子の不在」についても第三者の無責任な意見を炸裂させたみたいだ。レビューの書き手は「関係のない人物にたいする第三者の関心はこの程度のものなのだろう」とそれらの発言にリアリティを感じていたようだが、なんだか、空しい。それがどうなの? こいつらが嫌な奴だってことに変わりはない。自分たちを愛してくれない三人の元夫を攻撃するのも愚かすぎる。たとえそれが「愛している」「私を愛して」の裏返しだとしても、生の気持を相手にぶつける無神経さ、甘えは最低。これって、直接ぶつけるのでなければ、ありなんだよね。この三人が元夫たちのいないところでぶち上げるのであれば、けっこうおもしろく見れる場面だと思う。しかし直接言うというのは。愚かで醜すぎるかも。また、これが夫や恋人を相手にして言うことだったら、当然と思えるかもしれない。でも、相手は他人だよね。

これほど不快感を持ってしまうのはなぜなのかと考えて、気づいた。この三人の描き方には、すごい女性蔑視が隠されている。確かにリアリティがある。女性の嫌な面愚かな面醜い面を拡大して描いているのだ。演じる人たちが芸達者なので、さらに真に迫ってしまっているのだ。この女たちが嫌というより、彼女たちの描き方が嫌なんだな。

ああ、そして、かごめが死んでしまったみたい。

これについては、言及する気にもならないくらい、切ない。夢ならば覚めてくれと思う。ほんとうなのだろうか。まだ大豆田とわ子自身が死んでしまったというほうが受け入れられる。なんでだよ!

辛すぎる。

この脚本家は私に何か恨みでもあるのかと思うくらいだ。

これまで通り録画は続けて、最終回を観てから、またこの回に戻って観るつもりだ。かごめの死がほんとうだったら、そのときその死を悼もうと思う。