トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

オーディオブック『年収1億円になる人の習慣』山下誠司著で覚醒?!

自分よりずっと若い著者の本を読むのが楽しい。とても勉強になる。人間はどんどん進歩しているのだという気分になれる。

この本も良かった。フェラーリに乗りたくて、かっこよくなりたくて、億万長者になりたくて、そういう自分の欲望に忠実に、誇りを持って進んで行った若者の物語。吹っ切れれば欲望は人を高めてくれる、そんな話だ。

参考になったこと三つ。

①時間とお金は目的につながることにのみ用いる。

 目的がはっきりしていなければできないことだ。でも、この覚悟は必要だと思った。

 このままでのんびり行きたいと思っている人はそれでいいと思うけれど、目指すところがある人は、取り入れるべきだ。人生は短い。

②最初の10年間は休まない。ほんとにそのことが楽しくてやりたいことなら、それに集中するべきだ。

 毎日が仕事、毎日が夏休み好きなことをやってればそうなのだと思う。著者はほんとに仕事が好きなのだと思った。いや、そこまでやるから好きになったのかもしれない。

 「休みは無い。ローギアとハイギアがあるだけ」。ギアチェンジはやっぱり必要なのだろう。

 それと「休まないから仕事が楽しい」というのも腑に落ちた。やりこまなければほんとうの楽しさはわからないということだと思う。

③質よりスピード

 「一流ではスライディング意外は遅刻」という言葉が印象に残った。

 私など、とりかかりが遅くて人生淀んでしまっている。失敗が怖いからだ。モラトリアム人間だ。それじゃだめなんだ。失敗するまいとして人生、取りこぼしまくってきた気がする。

 「行動が先」「期限を決め、量をこなすと質の向上につながる。」(この順番がだいじ)」という言葉も心に響いた。

 特に私にとっては「期限を決める」ことがだいじだ。

生活に取り入れたこと三つ

⑴締め切り一週間前(少なくとも3日前)に提出する

 作品は途中で終わり、数作しか完成していない。何一つ応募していない。俳句も締め切りぎりぎりに投句して迷惑をかける。間に合わないことも多い。「ぎりぎりまで考える」のが良いと思っていた。しかし実際はぎりぎりに取り掛かるのが癖になっているだけだ。精神衛生上も良くない。フライングくらいのロケットスタートに切り替えようと思う。

⑵休まない

 毎日が夏休みだからこそ意識して休むことが必要だと思っていたが、完全に休むのではなく、特にだいじなことについては必ず一歩か二歩は前進しておくことにした。休み明けにゼロからスタートせずに済む。と言うか、完全に休んでしまうと実際にはマイナスからのスタートになってしまうと気づいた。

⑶人の悪口を言わない。聞かない。

 これを決めてすぐ、ネットに嫌な記事が上がった。ある役者の関係者がその人を貶める書き込みをしているというもの。今までの私だったら、好奇心で内容を調べてしまってさらに嫌な気持ちになっていただろう。怖いもの見たさと言うが、「嫌な物見たさ」ということが私にはある。

 でも、決めていたので検索しなかった。気分が悪くならなくて良かったし、時間も無駄にしなかった。

 悪口を言うのはその真偽に関わらずそれを言う人の人格を貶める行為だとも思った。その関係者のタレントはたぶん嫌われる。痛ましいとも感じた。とにかく私は、もうそういうことからは離れる。そう決めた。

 すごく元気が出る本だ。この本はオーディオブックで「聴き放題」だった。聞き放題リストで見なかったら読まなかったかもしれない。「聴く生活」、楽しくていい。

 もう年だからって年寄同士つるんで消化試合のような時間をだらだら過ごしている人たちもいるけれど、(誰かの言いなりになって従い「仲間がいる」という安心感に浸って)心の中ではマウンティング合戦をしてる人たちの仲間に入るのは嫌だ。年収1億円は20代から始めなければ無理だろうけれど、老い先短いからこそ時間は貴重だ。私の場合、目的に向かって進むことが楽しい。ただ今までは臆病で腰が引けていたから成果が上がらなかった。この本は結果を出すこととそういう人生の楽しみ方を教えてくれる本だ。がんがん読んで、書いて、楽しんで生活できればいいと思っている。だらだら過ごしていては楽しさが逃げるのだ。

 この本で覚醒したと言ってもいいと思う。

f:id:tomatomaru4gou:20220326092856j:plain

 

感想・オーディオブックで聴く『野菊の墓』(伊藤左千夫著)~泣ける!

f:id:tomatomaru4gou:20220322180218j:plain

オーディオブックで聴いた『野菊の墓』。

結末の部分で泣いてしまった。「民さん」が哀れで哀れで。

以前読んだことがあると思うのだが、記憶とたいぶ違っていた。「民さん」のイメージをか弱く可憐なだけだと思っていたのだが、気が弱いにしても品位のある快活な娘だと分かった。愛されて育ち、自分の意思も持っている。

民さんのイメージが変わったのは良かった。

おぼろげな記憶に終わらせず、読み直してみるのはいいことだ。オーディオブックで聴くのも良かった。散歩の時間、歩みの遅い老犬にイライラせずにすむし、時間を有効に使える、聴く楽しさもある。自分で読むとどうかすれば読み飛ばしてしまう部分もしっかりと耳に入る。

オーディオブックで聴くことの欠点は、語り手の読み方によって「読み」がかなり限定されてしまうことだ。聞きやすくするためにわざとだと思うが、細かく切って読む。その切るところが私の読み方と違うのである。じかに本を読めば100%自由に読めるのだが、聴いているとここは違うなと思ってしまうところがどうしても出てくるのだ。どうしても朗読者の解釈したものを聞かされているという違和感が残る。翻訳されたものを読む場合にもこういうことはあるのかもしれない。

しかし総合的に考えてオーディオブックを導入したのは正解だった。本来なら読めない量の読書が楽しめる。

野菊の墓』もとても良かった。

民さんのイメージがより正確な生き生きとしたものとなった。茄子をもぐシーンや、山の棉畑のシーンなど、二人の思い出も目に浮かぶようだった。

しかし時代の制約と言うのか、登場人物がみな良い人たちであるものの、というかそれなのに民さんが不幸になったのがどうにも残念だ。悪い奴がいたのなら仕方ないのだが、みな基本的に善人で民を愛していたのに、どうして好きでもない人のところへ嫁にやるのか。どうしてもう少し待ってあげなかったのか。政夫との結婚を認めなかったのか。殊に政夫の母親は当時としては破格なくらいやさしい良い人なのに、政夫も民も二人ながらに非常に愛していたのに、どうして二人の仲を裂いたのかと思う。後で自分を責めさいなむ彼女もまた非常に気の毒だ。

腹立つのは結びの部分。政夫が「余儀なく結婚させられた」民を忘れずにしのぶのはいいのだが、自分もまた「余儀なく結婚して永らえている」と述懐しているのが許せない。今結婚している妻の立場がないでしょう。誠実とは言えないでしょう。そんなふうだから民に「僕は民さんの思うとおりにします」とか言う手紙を与えながら中学に進学して以降民が死ぬまで一度も会いに行かないという不義理をしてしまうのだ。「恥ずかしい」とか「きまりが悪い」とか、言い訳にならない。

「僕たちの間には何もなかった」と純愛を標榜しているけれど、あの手紙はどうだろう。民の恋心はあの手紙で決定的になったに相違ない。あの手紙がなければ民だってきっぱりと新生活に入れたのだ。純粋な乙女にとっては実際に関係を持つ以上のインパクトを持つ手紙だ。「僕は民さんを思うだけで幸せだった」と自己完結しているが、相手のことをちっとも思いやらないなんて、信じられない。民が針の筵に座ってどういう明け暮れを送っているのか、考えないのだろうか。

最後の「余儀なく結婚」の一行だけはぜひ割愛してほしい。

 

 

感想・小野不由美『風の万里 黎明の空』十二国記 上下 新潮文庫

『月の影 影の海』に続いて陽子が出てくる。

鈴、祥瓊、陽子と私の十二国記4大ヒロインのうち三人が登場する。(4人目はもちろん『図南の翼』の珠晶)

貧しい家に生まれた鈴は12歳で売られた。売られる先はガス灯がまたたき鉄道馬車が走る東京だった。人買いの男に連れられての旅の途中崖から転落し、気が付いたとき鈴は虚海に浮かぶ船の上にいた。

祥瓊は十二国のひとつ芳の公主(王の娘)だった。彼女がこの物語に登場する場面は父王が弑され、母もまた首をはねられるという凄惨なシーンだ。父王の施政があまり苛烈であったため討たれたのだ。

鈴は言葉もわからぬ異界にほうりだされ、苦しみの果てに才州国の凌雲山の翠微洞に住む梨耀の下で働くことになる。仙籍を得れば言葉が通じるようになるという点にひかれたのだ。しかし梨耀はわがままで苛烈な人使いをする女だった。鈴は梨耀のいじめのターゲットになってしまう。他の人間関係にもなじめない。

祥瓊は仙籍も身分も失い、恵州のはずれにある里家という施設で暮らすことになった。そこの管理をする女性に公主であったことを知られ、父王に息子を殺されたその女性から壮絶ないじめを受ける。

鈴と祥瓊はさまざま苦難を経て成長するのだが、その途上で景王である陽子に会いたいと願うようになる。鈴は同じ倭国からこの異界へやってきた陽子なら自分の苦しみを理解してくれると信じた。祥瓊は陽子が自分の失ったすべてを手に入れて得意になっていると思い込み、同じ苦しみを味合わせたいと願った。

その陽子は慶の新王として登極したもののこの国の言葉すらわからず、読み書きから学ばなければならない有様。倭国生まれの陽子はこの異界の仕組みや風俗習慣国情すべてにうとく、なかなか臣下の信頼を得られないでいた。その上慶では女王による失政が二代も続いてしまっており、そもそも女王に対する不信感があったのだ。信頼できる臣下も数えるほどしかいない。

陽子が殊に悩んでいたのは初勅をどうするか。「勅」は他の法令とは異なり王自らが作成し宣下するものだ。陽子は初めて下す勅令をただ無難であるだけのものにしたくなかった。これからどういう国を作るのかを端的に示すものにしたいと強く思っていた。

悩んだ陽子はついに身分を隠して旅に出る。国と民の実情を知らなければ何も決められないと決心したのだ。

鈴、祥瓊、陽子の三人が出会うとき、慶国の未来にも新しい希望が見えてくる。そして陽子の宣下した初勅は?

p388からの結びの場面は陽子の面目躍如。めっちゃクールだ。

「人は誰の奴隷でもない。そんなことのために生まれるのじゃない。他者に虐げられても屈することのない心、災厄に襲われても挫けることのない心、不正があれば糺すことを恐れず、けだものに媚びず、ーーー私は慶の民にそんな不羈の民になってほしい。己という領土を治める唯一無二の君主に。そのためにまず、他者の前で毅然と首(こうべ)をあげることから始めてほしい」

この言葉、私の心に刻んだ。「人に頭を下げるたびに、壊れていくもの」があるという陽子の言葉も、ほんとうだと思う。

tomatomaru4gou.hatenablog.com

 

樺沢紫苑『インプット大全』 サンクチュアリ出版

『アウトプット大全』が示唆に富んでいたので、インプットの方も読んでみた。インプット3にアウトプット7くらいの割合が理想とあり、生活が楽しくなった。それまで特別な才能のある人だけがアウトプットを許されると思い込み、アウトプット全般にどこか腰が引けていたのだが、アウトプットしたほうがいいのだと断言されていてすごく気がラクになった。それをさらに強化してくれるのがこの『インプット大全』。

この本に書かれていることだが、「アウトプット前提のインプット」でなければあまり意味がないのだ。アウトプットすると思えばインプットにも力が入る。

書かれていたように3つの気づきと3つの「今日から始めるTODO」を書いておくことにする。

3つの気づき

① p92 24 楽に聞く Relax  and  Listen 「受け止める」のではなく「受け流す」

ストレスを受け止めるのではなく、のれんのように「受け流す」という「のれんの法則」は、すごく参考になった。

「相手の話をやわらかく、フワッと聴くようにする。そんなやわらい空気感を、非言語的にも相手に伝えていく。そうすると、相手のストレスを受けないだけでなく、相手もフワッと癒された気持ちになるのです。」

私は余裕がなく、すぐに相手に同調して深刻になってしまったり感情的になってしまいがちなので気をつけたい。「のれんになる」というのはとてもいい方法だと思った。

② p33 AZ=アウトプット前提のインプットで行こう

「2週間で3回以上アウトプット」するとインプットの精度が飛躍的に高まるそうだ。

しかしそこまで出来ない場合でも「アウトプット前提でインプット」すればいいのだと書かれている。読んだ本についてブログにアップするつもりで「読む」、講演会の内容を後で報告するつもりで「聴く」などだ。

そういえば「吟行」なども俳句を作る前提で旅や散策をするからものをよく見ることになるんだな。

③ p111 31観察力 常に「なぜ?」を意識する

「あれっ?」と思ったことを掘ってみるくせをつけると観察力が鍛えられるとある。

吟行に行ってもちっとも句ができない私。発見もなければ何を観察するべきかもわからず、他の人が立ち止まったところで立ち止まり、視線の先をいじましく追う。出来れば俳句手帳をカンニングしたいくらいだ。そんな風だから手垢のついた誰でも詠むような月並みな俳句しかできないのだ。

そうか、「なぜ?」「WANDER!」がだいじなんだ。とうぶん吟行もないだろうが、行けるようになったら、すべてのものに「なぜ?」をぶつけるつもりでやってみようと思った。

取り入れたTODO

① p83 移動時間のすべてをインプットに

ここに書かれていた「オーディオブック」をすぐさまインストールして使っている。

犬の散歩に一日1時間半くらいかかるので今までは音楽を聴いていたのだが、オーディオブックで書籍を聴くのもいいものだ。新しい習慣。

② p112 街歩きはテーマを決めて歩く

別のページに「下調べをしないで国内旅行をする」というのがあったが、これから下調べをしないで近場の東京を歩いてみようと思っている。今まで旅するときには予めガイドブックやネットで調べて行くことにしていた。名所を巡り、おいしいと言われる店で食事をしていた。そういう旅から脱却したい。

しかし何の当てもなくただ歩くというのもつまらない。この「テーマを決めて」というのはおもしろそうだ。

私のテーマは4つ。本屋とカフェと蕎麦屋と江戸だ。この4つについて、自分の足で歩いて何かを見つけたい。

③ p206 65歴史から学ぶ

その学び方のステップが書かれているが、一番目の「好きな時代、国、好きな人物を見つける」は面白そうだ。まずここから。私の場合江戸とニューヨークということになると思う。「江戸」は②の街歩きとも関連しそうだ。

こうやってまとめてみると、この本は人生の楽しみ方を具体的に教えてくれているのだと思った。

樺沢先生、すごい! 今度講演会かなにかを見つけて会いに行ってみようと思う。

 

tomatomaru4gou.hatenablog.com

 

 

 

 

 

「道の駅とみうら(冨浦)」が最近のお気に入り

f:id:tomatomaru4gou:20220315115411j:plain

館山道をぐんぐん走って終点で下りてちょっと行ったところ。(地図の読めない女の説明)でも、看板もあるし、すぐわかります。

以前にも書いたけれど、店の裏手がイングリッシュガーデンのようになっていて、川もある。橋を渡って丘の上に出ると一面の菜の花畑だ。もう少ししたら桜も咲くだろう。

f:id:tomatomaru4gou:20220315114414j:plain

f:id:tomatomaru4gou:20220315114438j:plain

お店で売っているおいしいもの。

蜂蜜。各種あってどれもおいしい。おいしい蜂蜜がひと瓶ある生活は気に入りのカフェのある大通りのように心を満たしてくれる。

f:id:tomatomaru4gou:20220315115732j:plain

たま麩

直径7センチくらいもある大きな麩。これの優れているところは予めふやかさなくてもそのまま汁に入れてOKというところ。ふわふわでとってもおいしい。ちぎって入れる人が多いかもしれないけれど、私はそのままが好きだ。すき焼きにも。

f:id:tomatomaru4gou:20220315120030j:plain

刻み揚げ

この商品の優れたところは常温保存できる点だ。油揚げはいちいち湯通しするのがめんどうだし、たいてい3枚くらいセットになっているので一度では使い切れない。冷蔵庫で干からびがちだ。冷凍するとおいしくないのだ。相模屋の「きざみあげ」は、そういう手間を一切省いてくれる。しかも味が染ませてある。味噌汁はもちろんのこと小松菜と一緒に炊いたり味ご飯に入れたり、無限に使いこなせる。「あ、あぶらあげを買い忘れた!」と悩むこともなくなる。

ここで飲むコーヒーもおいしい。

 

村上春樹『村上ラヂオ』 マガジンハウス

村上春樹 文

大橋歩  画

 

村上春樹のエッセイ集の中でも特に好きな一冊に入る。もう何度も読んで、本もちょっと古い感じになっている。

大橋歩さんの絵がすてき。高校生くらいのときかな、「アンアン」が創刊。田舎の女子高生は「東京」へのあこがれをこの雑誌で満たしていた。「ドンクのパン」とか、食べたかったな。

このエッセイは2000年ごろアンアンに連載されたものだそうだ。

p58「りんごの気持ち」。「サイダーハウス・ルール」、いい映画だった。このエッセイはあのころ書かれたんだ。村上さんも観ておられると思うとうれしい。酸っぱいりんごは苦手だけれど。

p86「オーバーの中の子犬」。写真に撮られることが苦手で「カメラを向けられたとたん、ほとんど反射的に顔がかちかちにこわばってしまう」という村上さん。実は私もそうなのだ。けっこう困ってしまうことが多いのだが、そんな欠点も村上さんと同じだと思うとうれしい。岸田衿子さん作詞という「こいぬはなぜあったかい」という歌の歌詞がとても好きだ。私も、いつもオーバーの中に子犬を入れて歩きたい。

高校生の頃捨て犬の飼い主が見つかるまでということで一日だけ子犬を預かったことがある。学校から制服の上着の中に子犬をしまって連れて帰った。臭かったのでスカンクタンと名付けてタオルで拭いてやった。翌日また上着の中にあたたかい子犬をしまって学校へ行った。別れるとき名前を呼ぶと、もう覚えていて私の方へ歩いてきた。

p122「あ、いけない!」。村上さんの全エッセイの中でいちばん好きかもしれない。ストックホルムでレンタカーを借りた村上さんたちはスカンディナビアン・ブルーの五月の空の下、デンマークをめざす。車はサーブ9-3だ。「マニュアル・シフトはまるでバターを温かいナイフで切るみたいに、クイックに滑らかに決まる。」そんな人生でもっとも幸福だった朝の後に続く悲劇のエピソードが(他人のことなので)笑える。

 

濱口竜介監督・脚本『ドライブ マイ カー』

DRIVE MY CAR

監督・脚本 濱口竜介

脚本 大江崇充

家福悠介 西島秀俊

渡利みさき 三浦透子

高槻耕史 岡田将生

家福音 霧島れいか

村上春樹の短編小説は難解だ。長編がわかりやすいというわけではないが、私には短編のほうがより謎に満ちているような気がする。短いから手がかりが少ない。『女のいない男たち』の6つの短編は、それぞれが独立していながらゆるいつながりを持つというか互いに他の5編の手がかりになっている。とはいえこれはこうと明解できるわけではないし、むしろ曖昧な読後感をたいせつにしたい感じだ。

映画『ドライブ マイ カー』には、濱口監督が読み解いたこの小説の世界がしぶい感じで提示されている。まぎれもなくひとつの解釈でありながら新しい謎の提示にもなっている。そういう快い作品だ。

チェホフの『ワーニャ伯父さん』を読んでいて良かった。この映画のテーマのひとつが最後のソーニャのセリフに表れている。戯曲を読んでいたのでそのあたりが理解しやすかった。ワーニャの肩を後ろから抱いて、ソーニャは「ひとのために生きていきましょう」と言う。

「そして時が来たら、神様にこう言いましょう。私たちは苦しみました。泣きました。つらかった。」でも「生き抜いた」ということだろうと思う。

妻を失い、喪失感の中広島の演劇祭で『ワーニャ伯父さん』の演出をすることになった家福は妻の浮気相手だった高槻がオーディションを受けに来たことに驚く。高槻とのやりとりや家福の車の運転手として雇われた渡利みさきとの交流の中、彼は自分自身と向き合うことになる。事件を起こした高築が去った後、混乱して考えをまとめることもできない家福はみさきの故郷、北海道の十二湖町まで車を走らせる。その車は妻との思い出の詰まった赤いサーブ。みさきは交代するという家福の申し出を断って、ひとりで運転する。

町のようすは変わり、地震で倒壊したみさきの実家は雪に埋もれていた。心に傷を持つみさきを抱きしめて、家福は言う。「生きて行かなければならない。生きて行ける」

妻の死までの家福との生活をたんねんに描く長いオープニングがあるので、この場面の家福がすごく心に沁みる。繰り返しになるが、『ワーニャ伯父さん』のテーマと重なるところでもある。

他には演出をする家福の「うまくやろうとしなくていい」という言葉が心に残った。頭の中で勝手に言葉を足して、「うまくやろうとしなくていい。ただ、生きて行けばいいんだ」と聞いていた。

高槻が家福に言ったこと、「すばらしいパートナーだった音さんと浮気をしていた音さんと、両方の音さんをそのまま愛するわけにはいかないのですか。」。この言葉も印象に残った。

どちらの音も真実の音だ。そうであるしかできなかったのだ。

この映画を観て、戯曲『ワーニャ伯父さん』の最後のソーニャのセリフを宗教的なものだと思った私の解釈は違っていたと思った。神に頼り、任せるということではなかったのだ。自分たちの人生を引き受けて、受容して、生き抜くという意味なのだと思う。やり切れない人生、今となっては何もかも遅すぎるこの人生を。

私たちは人生の負の側面も受け入れて生きていかなければならない。誰にでもある失敗、慚愧、後悔も含めて。

私は自分の人生の数々の失敗を思って後悔することが多いけれど、それが私なのだと思う。もしそこでうまくやれたとしたら、それは私ではない。どの時も私は一生懸命だったし、そうであるしかできなかったのだ。それも含めて自分を愛するべきだし、自分を愛するひとにもそうあってほしいと思う。

みさきがとても素敵。美人とは言えないがけっして醜くはない、運転がすばらしくうまい、という小説のイメージにぴったりだ。運転がうまいということにはそれ以上の意味がある。それは現実との向き合い方の問題だと思う。不幸と言える生い立ちをそのまま自分のものとして、ただ生きているみさき。淡々としたたたずまいに惹かれる。煙草の吸い方、背中をまるめた後姿。この人のことは忘れない。最後のシーンの幸せそうな顔。そばに居る犬と共にめっちゃ好きだ。

原作で黄色いサーブだったのが、この映画では赤い車になっている。この映画を観て読み返したのだが、以前読んだとき家福の妻は自殺したのだと記憶違いをしていた。どうしてそう思ってしまったのだろう。家福は記憶となった妻とどう折り合いをつけるのだろうか。さまざま謎は残る。