トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

美術展&蕎麦を楽しむ

国立西洋美術館


企画展「自然と人のダイアローグ」へ。

今日はこの2点で頭も心もいっぱいになった。

ゴッホ「刈り入れ」とクレーの「月の出」。

クレーはもとより大好きな画家で、この人の絵がある展示室に入るとすぐに第六感で「ここにある!」とわかるくらい。もうなんか、すごく、好きな絵だ。

でも今日もっとも長く時間を過ごしたのは「刈り入れ」。なぜこんなに魅かれるのだろう。

この絵を描きながらも彼は死を思っていたのだろうか。この絵の解説プレートに「しかし彼の想念は暗いものではなかった」という意味のことが書かれており、内容が心に響いた。

自死したけれど負けたんじゃない。

美術館を出てぶらぶらと上野公園散策。緑が濃い。

JR上野駅マルイの裏あたりに上野藪蕎麦がある。

サラダ蕎麦。鴨ロースト、カラっと揚がった小海老、新鮮な野菜。もちろん蕎麦はうまい。

 




バスのお出かけ、映画、モンスーンカフェ

先々週爆発してしまった。言ったことはいいのだが言い方がまずかった。しかも弱い者へとばっちりが行った。最低。

こういうときは自分のケアだ。

オタク人間ではあるが、やはり外から取り込むものも必要。隠者のような日々は快適だったが、あまり続くと良くないのかもしれない。

と言うことで、週に一日は外出しようと決めた。昨日はバスでモールへお出かけ。

久しぶりに乗るバスは楽しかった。スイカでピッとして窓際の席に座る。通り過ぎる街並みを見ているだけで心弾むものがある。景色を観つつ運ばれて行くといううれしさはバスでも味わえる。

モールに着いてぶらぶらしていたら「モンスーンカフェ」があった。一度行ってみたかったお店。満員で、少し待って案内される。天井の高い南国風の作りだ。

シンハービール、ルーロー飯、エスニックトースト、サラダ。うまい。キンドルで『夏姫』を読みながら。

中国の歴史物が好きだ。大きな時の流れの中で生き抜く人々の群像が「くよくよしても始まらない」という気分にさせてくれる。目先の欲、保身で動く人間の愚かさも身に沁みてくる。等々、本との時間を充実させながら味覚も満足。

映画は残念だった。キャストがぴったりでよく出来ているのだが、何かが足りない。主人公が結ばれる女の人に好意が持てなかった。その人は何も悪くないのだが。

綾瀬はるかさんの水泳コーチが良かった。とにかく熱心。全能力を傾けて水に賭けている。見ていて泳ぎたくなった。

先日久々に『プリティウーマン』を見たが、筋はなんでもないものなのに心浮き立つ。観た後、なんでもない日常のことが楽しく感じられる。これは「夢のあるシンデレラストーリィ」だからではない。

ジュリア・ロバーツの出演する映画はみんなそうなのだ。ジュリア・ロバーツは存在そのもので訴えかけてくるものがある。床に座ってテレビの映画を観ているだけのシーンがとても素敵なのだ。彼女がしょぼいシングルマザーになれば、その女が訴えかけているものが必ずある。女学生になればその日常のこまかな動作まで魅力的だ。

どんな人生でも生きていることは意味があると感じさせてくれる。言葉でなく存在そのもので。

『プリティウーマン』のビビアンの魅力はそのジュリア・ロバーツの魅力なのだと思う。娼婦がシンデレラになる理由はそこにしかない。

綾瀬はるかさんもそういう種類の俳優だ。昨日見た作品でも、その魅力は際立っていた。彼女に焦点を当てれば良かったのにと思う。その物足りなさだ。水中で精神の海に溺れる生徒を抱きとめるシーンは秀逸だった。交通事故のトラウマで道を歩くことに極端な恐れを感じる彼女が、パニックになりながらも生徒を案じてその住まいを訪れる。それは恋ではなく教師の使命感だ。そのあたたかさ、カッコよさ! だからこそその姿に惚れない男はアホだと思ってしまう。ストーリィ的には無理があるが、ぜひコーチのほうへ行ってほしかった。そこから子連れのシングルマザーへ行くなんてあり得ない。

そんなことを考えながら帰りのバスに乗っていた。

 

 

俳句の20冊ー4冊目『型で学ぶはじめての俳句ドリル』

『「型」で学ぶはじめての俳句ドリル』 夏井いつき 岸本尚毅  祥伝社

 俳句の20冊の4冊目。

 夏井先生が「チーム裾野」とよく書いておられるが、この本で「俳句が百年後も富士山のように高くて美しい山であり続けるために必要な豊かで広い裾野」と説明されていて、おお! と思った。そうか、取るに足らない句をせっせと作る毎日だがそれは自分以外の人間にとっても意味のある営みなんだな。

 夏井先生の言葉は読む者を「豊かで広い裾野」へ連れて行って放し飼いにしてくれる。その夏井先生と岸本博士(と呼びたくなる博識と明晰な分析力)とはよいコンビだ。互いに敬意をはらいつつあくまでも率直な真摯な会話でどんどん作句の世界へ切り込んでいく。

 この本を読んで思ったのは、「とにかく歩き回ることを楽しめる人」(P42)になろうということ。歩き回り、「頭を空っぽにして見たままの俳句を」を作ろうと思う。「日が照って風が吹くかぎり発電できる」という岸本博士の言葉に力づけられた。岸本先生ご本人は「外から入ったものを加工するやり方」で長年やって来られたとのこと。それもありなんだ。

 とはいえ、すこしはひとの心に刺さる句を作りたい。

 この本からつかんだヒントは、「3音か5音分のオリジナリティかリアリティ」を目指すということ。今まではただ自分の感じたことをそのまま表現してきたので、類句が多かった。平凡だし、季語の説明になってることも多い。季語と出会うことによってそのものに初めて向かい合い、感動して作る。自分にとっては初めての出会いだが、皆さんにとっては先刻ご承知、二番煎じということになる。

 でもどこに気を付け、どこへ向かえばいいのか分からなかった。〇がついても偶然いいものが出来たかという感じ。次はまた没句になってしまう。「3音か5音分のオリジナリティがリアリティ」と明確に言ってもらってハッとした。

 近しい人で良い句を作る人を見ていると、人間としての格の大きさがやはりものを言うように思う。技術だけでは追いつかない部分が大きい。人間が出来た分だけ言葉も光ってくる気がする。

 でも工夫の余地はある。

 これからだ(と思いたい)。

 

『巡り会う時間たち』を観る


U-NEXTで『巡り会う時間たち』を観た。2002年USA、スティーブン・ダルドリー監督。

1923年英国リッチモンドヴァージニア・ウルフ、1951年合衆国ロスアンゼルスのローラ・ブラウン、2001年ニューヨークのクラリッサ・ヴォーン。3人の女のある一日が同時進行で描かれる。3人をつなぐのはヴァージニアが執筆し、ローラが愛読している小説『ダロウェイ夫人』だ。

3人の女は外から見れば幸せな成功者だ。ヴァージニアは作家であり、クラリッサは編集者、ローラは優しい夫と息子を持ち妊娠中。しかし3人とも内面は苦しみに満ちている。

ヴァージニアは刺激の多すぎるロンドンでの暮らしに疲れ自殺未遂、記憶喪失、気鬱などで苦しみ、夫の配慮で田舎暮らしをしている。しかし彼女の精神的苦悩は内面から来るものであり、静かな暮らしはかえって彼女を苦しめる。愛する夫も仕事も彼女を救わない。

友人のケティによれば「女の幸せのすべてを手にしている」ローラも内面は満たされない。『ダロウェイ夫人』の渇き、苦悩へとどうしようもなく惹かれる。幼い息子は母を失う不安にさいなまれる。彼を預けて立ち去る母を窓に顔を押し付けて見送る姿はいたましい。

クラリッサは編集者として成功し、同性の友人と暮らし、人工授精で得た娘も快活に育っている。しかし彼女が「生きている」と感じられるのは、若き日のひと夏を恋人として過ごし、今では友人である作家リチャードと一緒の時間だけなのだった。リチャードはエイズに侵され、心も体もボロボロ、生きることに喜びを感じない。

『ダロウェイ夫人』を執筆しながらヴァージニアは死を思う。ヒロインを死なせるストーリーを考えつき、それを止めるが、代わりに「詩人」が死ぬことになる。

『ダロウェイ夫人』を愛読するローラも死を思っている。息子を預け、ホテルへ行って薬を飲もうとする。

リチャードも死を救いのように感じ、死へあこがれている。

ヴァージニアもローラも、その愛は報われない。ヴァージニアが愛する姉も、ローラが愛する友人ケティも、内面を持たず現実の世界に生きている。その点ではヴァージニアを理解できず疎んじている使用人たちと同じだ。彼らは彼女たちを理解しない。彼女たちは、トニオ・クレーゲルが美しくはあるが内面は平凡な美少女にあこがれたように、姉やケティを愛しているのだ。クラリッサはその両方の世界にまたがる人間で、リチャードから愛され、彼を愛しているものの、現実の世界と折り合いをつける人生を選択している。

私はこの映画を、愛すること生きることへの大きな疑問符のように感じた。

完璧な疑問は完璧な答えでもある。

たとえばヴァージニアの入水は、夫と共に生きるための入水だった。家族を捨てたローラも、「死より生を選んだ」と言っている。リチャードの死もクラリッサと自分を生かすための死だったのだろう。

何と言うか、命をかけて生きるとでも言うのだろうか。他人から幸せねと言われることを幸せとせず、世間に認められることでもなく、自分の内面に忠実である生き方が提示されているように思った。自殺や世間からの逃亡をも辞さないことでしか得られない生、そういう生を生きることでしか幸せを感じられない生き方だ。でも、そこにこそ希望はある。

『ダロウェイ夫人』、未読なので今度ぜひ読みたい。

ひとつ嬉しかったのは、映画の中でヴァージニア・ウルフが机につかず椅子に座り画板のようなものを膝に置いて執筆していたこと。私が使っている膝置きの木製スタンドによく似ている! 私って、ヴァージニア・ウルフしてたんだ。

船井幸雄『一粒の人生論』をオーディオブックで三度聴いた

楽な気持ちにさせてくれた二つの考え方。

⑴世の中のすべてのことはマクロで見れば良くなる方向へ向かっている。

⑵すべては必然、意味のあることである。

 「マクロで見る」というのがだいじだと思う。

 人類は進歩していないと言う人もいるが、どう見ても良くなってる気がする。

 昨日今日、去年今年の範囲で見ると逆行しているような気もするが、大きな流れを見れば確実に良くなっているのだ。黄河は西から東へ流れているが、部分を見れば逆に流れているところもあり、淀んでいる場所もある。大勢としてはでも、確実に下流へと進んでいるから心配しなくていいのだ。

 これを読んで気がラクになった。⑵はよく言われることだ。⑴、⑵、共にそれで気がラクになるのであれば信じてさしつかえないことだと思う。

 他に「嫌なことをがんばらず、好きなことをする」「他人を批判しない。できれば包み込む。無理ならスルーする」など、実用的ないい言葉がたくさんあったので、三度聴いた。少し飽きてきたので、また折を見て聴こうと思う。朝の散歩の時などに聴くと気持ちが明るくなる。

 

ちきりん『多眼思考』を読んで開眼した

ちきりん『多眼思考』 大和書房

気になったところ、開眼させてくれたところ

014 「誰と時間を過ごすのか」は、「何をするか」とほぼ同等。(もしかしたらそれ以上)に大事。

 これはとても共感する。高級料理を嫌な奴と食べるより一人で本を読みながらファストフードを食べる方がましだ。だから、嫌な会合には行かない。ガイドブックに載ってる店でも、それまで贔屓にしてる店でも、嫌な接客があったら行かない。いばりながら提供されるのはごめんだ。

 いっぽう、何もしなくても、おもしろい会話がなくても、一緒に居るだけで心満たされる関係は最高だ。そういう間柄の人とは時間や空間を隔ててしまってもつながりが切れない。いつでも存在を感じることができる。

050 「思考力がある、ない」とか言うけれど、ちきりんが思うには、大事なのは「どれだけ考えたか」つまり「思考の量」です。「思考力の高い人、低い人」がいるのではなく「ナンも考えていない人」と「すごく考えている人」がいるだけ。

 これは目からウロコだった。考えることを諦めちゃいけないと思う。

 またここから敷衍して、読解力のある人と無い人がいるわけでもないのではと考えついた。難解な本に当たって玉砕し自信を失うことがあるけれど、読み解ける人というのはじっくりと読み込んだ人なのではないだろうか。読解の所要時間が短い人と言うのは、その手の本に慣れているだけなのかもしれない。始めはわからなくてもしつこく読み込んでいった経験があるだけなのかもしれない。

 自分の能力を見限り、そのためにいろいろ諦めるなんてくだらないってこと。能力に違いがあるとしても、上を見ればきりがないし、下を見て慢心するのも愚か。あまり周囲を気にしないといいのかも。

205 「バランスなんてとってるとおもしろくない」ってのは、人だけじゃなくて企業も同じなんだよね。「すべての人に満足してもらえる商品」とか作ってると、めっちゃおもしろくない商品になる。尖った商品、偏った特徴のモノにみんな惹かれる。」

 なるほど。そうかもしれないと思った。

 私の俳句が他人に響かないのも、そういうことかも。「尖る」。私の辞書には無いことばだった。

221 隣接する国はたいてい仲が悪いし、多くの場合、領土問題(国境問題)を抱えています。そういう問題が存在しない隣国関係が当たり前であり、問題は解決されなければならないなどとは思いこまないほうがいい。世の中、そんなもんなんです。

 この下りも目からウロコ! 問題があるのが「普通」「常態」なのだと考えたほうがいいのか、と開眼した。

 隣国を隣人と言い換えてもいいと思う。親族や家族も同じ。人間同士が隣接するーつまり利害関係を伴っているとき何の問題もないなんてあり得ない。近しければ近いだけ軋轢が生じるのだ。

 たとえば愛し合って結婚した共働きの夫婦。夫婦こそシビアな利害関係が生じる。家事についていっぽうが楽をすれば他方の負担が大きくなる。子どもが熱でも出せば「どちらが仕事を休むか」で当然もめるだろう。これが一緒に暮らしていない他人ならまったく争う接点がないわけだから問題も起こらないわけだ。

 何も無いなんてあり得ないと思った方がいいのだ。

 ご近所だって、「良い方ばかり」なんてあり得ないと思った方がいいのだろう。

 ここに書き抜いた目からウロコの文、こういうこと他の本にはあまり書かれていないように思う。「私のまわりはいい人ばかりです」「こうすればうまく行きます」「私はうまくやってます」的なものはよく目にする。「ああそうですか。良かったですね」としか言いようのない文章が多い気がする。それに比べてちきりんが言い切ってくれることはすごく参考になる。

 ツイッターの発言をまとめた本だけれど、通して読んで、ちきりんという人がわかって来た気がする。正直、さすがだと思った。

 

不朽の名作=ヴィクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』をオーディオブックで聴いた

「生涯尊敬できる者と出会うこと、また全身全霊をかけて愛せる者と出会うこと、その両方を得たジャンバルジャンはきびしい人生ながら、この上なく幸福であったと言えましょう。」

 ジャンバルジャンの死に際して贈られた言葉が胸を打った。

 貧しさゆえに一切れのパンを盗んだジャンバルジャンは家族を案じるあまり脱走を重ねて結局19年間も投獄されていた。釈放されたものの寄る辺の無い彼を救ったのはミュリエル司教だった。貧しい客のためにこそ使うのだと言って銀の食器で彼をもてなす。しかしジャンバルジャンは銀の食器を盗んで逃亡する。

 ジャンバルジャンを逮捕して連れて来た警官にミュリエル司教は「その食器は差し上げたのだ」と言う。「この銀の燭台を忘れて行きましたね」と銀の燭台まで差し出すのだ。ミュリエル司教の無私の心、それよりもなによりも彼の中の善なる心を信じてくれたこと、あなたはもう更生していると言い切ってくれたことがジャンバルジャンの胸を打ち、苦難に満ちた人生を生き抜く力となったのだ。

 もう一人、コゼットがいた。貧しい母フォンティーヌは強欲で残忍なテナルディエ夫婦にだまされて幼いコゼットを預ける。身軽になって身を粉にして働き、コゼットの養育費を仕送りする。しかしテナルディエ夫婦はその金を着服し、コゼットを虐待してこき使っていた。ついに病に倒れ亡くなったフォンティーヌのためにジャンバルジャンはコゼットを救出、愛を注ぎ、養育する。

 警官のジャベルはジャンバルジャンの更生を認めず、「世間をたばかる元囚人」として追い続ける。ジャベルにとっての「法と秩序」は富栄えている者たちだけのためのものだった。ジャベルはそういうものを守ることが自分の使命だと思い込んでいたのだ。

 フランス革命に続く激動期のパリで、ジャンバルジャンとコゼット、革命を志す青年マリウス、ジャベルの運命が交差し、ぶつかり合う。

 小学生のころ「世界文学全集」で読んだ『ああ無情』は印象的だった。アン・ハサウェイの美しさが印象的な映画「レ・ミゼラブル」も良かった。やはり原作が名作だからだと思う。

 このオーディオブック版はコンパクトになってはいるがジャンバルジャンとジャベルの確執に焦点を当てて非常におもしろく、心揺さぶる作品になっている。充分に満足できた。