トマト丸 北へ!

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「分かるわ」の大切さ  

けっこうな虐められ方をしてきて、力を振り絞って対決し、自分の中では昇華できた体験を、自分の理解者と思っていた人に打ち明けた。

彼女は黙って聞いていたが、やがて私を虐めた人物の立派なところを二、三挙げた。

ああ、この人も体制派で、私の側に立ってくれる人じゃなかったのだ、と思った。

彼女の小さな社会の中でのヒエラルキーを、守ったわけだ。

それは人間だから、そういうこともするだろう。賢く世の中を渡っていくには、そういう風にしたほうがいいし、そうできないと、場合によっては属している社会から抹殺される。

だが、私も別に一緒に戦ってくれることを望んだわけではない。味方になってほしかったわけでもない。もう私の中では終わったことだということもあるが、私と彼女の関係と、その人と彼女の関係は、別なのだから。

ただ、自分が苦しんで、ちょっとは頑張ったことを、分かってほしかった。私の辛さや口惜しさを、乗り越えた誇りを、共有してほしかったのだ。

彼女はそれなしで、「あの人にもいい所はあるのよ」と第三者としての意見を述べたので、私は淋しかったのだ。

「分かるよ」という一言は大切だと思った。

反対意見を言ってもいいから、その前に「分かるよ」の一言があったら、素直に受け取れると思う。大げさなんじゃない? 盛ってるよね? と思ったとしても、一応とにかく「分かるよ」と。だって分かってもらいたくて話しているのだから。

「分かるよ」というのは、同じ意見だという意味ではなく、あなたの感情、意見、人格を尊重しているよ、分かろうとしているよ、という意味なのだ。

「分かるよ」という言葉そのままでなくとも、同じニュアンスなら、いい。

今はなかなか会えない私の親友は、私が縷々思いを述べると、微笑んで、「よう分からんけど」と言っていた。人の気持ちは分からないのが当たり前だし、私の飛躍の多い独善的なしゃべりを聴いても「よう分からん」というのが正直なところだろう。でも癒された。

「分からないよ」ではないし、批判もしない。その中に温かい思いがあれば、「分かるわ」と同じかそれ以上。