このレビューを書こうとして、この本の表題に初めて気づいた。
「孤独の意味」も「女であることの味わい」も、大して読み取れていない。もう一度時間を置いて読み直さなければ。
私が惹かれたのは、この著者の独特のものの言い回しだ。逆説的なものも含めて自慢tというものが無い。これはわりと珍しい現象だと思う。美貌と頭の良さを兼ね備えていると自慢やマウンティングをする必要などないのだ。
もう、すべてが淡々と語られている。ヒロイックになることなく、さりとて「ダメな私」を気取ることもなく、「こうこうこういうことがありました。私はこう感じていました。」と。
97ページの記述が心に残っている。
木工教室での「人民裁判」とそのこととの間に大して違いはなかった。
相手の行為は私の意に反しており、苦痛だった。尊厳を奪い去られる気がした。
その一方で、なんとなく自分にも非がある気がしたのだ。
原因は同じことだ。私の存在がいけなかったということ。
要は生意気だったということだ。
誰かに憎しみをぶつけられ、支配欲を剥き出しにされる不条理は、なぜか私だけに向けられているようで、すべて自分のせいだと感じるほかはなかった。
この感じ方、身に覚えがある。虐められるとき、常に自分が悪いように感じていた。そんな風に感じているからこそ虐められるわけだが、マイノリティであることは虐められても仕方のない引け目であるように思えた。
私を虐めている人たちは、「いい人」「真面目な人」と言われており、仲間もたくさんおり、限定的にではあっても「力」を持っているのだから。彼らが悪い面を剥き出しにするのは、私に対してだけなのだから。
理不尽な取り扱いについて抗議することは、まったく無駄だと思われた。
だからこの本のこの記述に共感したのだ。
で、著者が救われたという著者の夫の言葉に、私も救われた気がした。
帰責性と因果関係を混同したらだめだ。
あなたという存在には、他者の支配欲を呼び起こす原因はあるが、だからといって責任はない。
たぶん、裕福で無防備な人は泥棒に狙われやすいが、だからと言って、「泥棒には罪はない。盗まれた責任は本人にある。」というのは違うよ、ということだと思う。
ふしぎな魅力のある本だ。この本を読んだり、著者の静かな表情を思い起こすと、小さなことをさらっと流せる気がする。