句会は無記名で点を入れ、句の論評をし、後で作者名を明かす。
先生、始めは「いい句ですね」とほめていらした句を、作者が私だと分かった途端、ダメだと怒り始めた。
句会の中で厳しく言われるのは私だけだ。
もちろん師にとっては弟子のひとりに過ぎないが、他の人たちと少し違う特別感はある。
いつも、期待しているから、と言われて来た。
今まで先生の誉め言葉を、菲才で人間関係も痛い私への慰めであり単なるリップサービスだと思っていたのだが、いっこうに良い句が出来ず遂に怒られたことで先生は本気だったと分かった。
感謝しかない。
感謝はするが、だからと言って結果が出せるかと言うと、自信が無い。
私の場合、技術ではなく、固くなってしまった心が問題なのだ。
打たれ続けて、傷ついて、自分で自分を叩くようになってしまい、壊れた太鼓、狂った楽器のように、音程やリズムの外れた無意味な言動を垂れ流し、自分で制御できない。無意識に他人を傷つける言動をしてしまったり、する。そして自分も傷つく。
そして結果さらに撃たれ、人を憎み、自己嫌悪でいっぱいになって。
これが私という人間の全てではないが、そういう側面を持っているのは事実だ。だから、俳句という短詩系の文学は私にとってハードルが高いのだ。
ここから立ち直って、自由でやわらかな心を取り戻すことが出来なければ、俳句もどうにもならない。こちんこちんになった心のささくれ立った表面からは何も生まれない。
自分で自分を救わなければ、誰も助けてはくれないし、自分で自分を攻撃していては、勝ち目は無い。どんな弱い相手にも負けてしまう。
せっかく生まれてきて、こんなことで人生を終わりたくない。
もう、自分を痛めつけるのは止めよう。魂が喜ぶ仕事に集中するだけでいい。自分があたたかい心を取り戻し、開放されるまで。
心を開くことができれば、ちっとは良い句ができるかも。
自分は、人間関係はもう諦めようと思っていたが、観ていてくれる人もいるのだ。
才能もセンスも無いのだから、人の十倍は努力しなければならぬ。それは私にとっては楽しいことだから、いいのだけれど。
人の十倍努力する案件がいくつもあって大変。