トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

『善人ほど悪い奴はいない』 ニーチェの人間学 中島義道著 その2

前回この本の総論について書いたので、今度は各論のうち、気になったものを取り上げたい。

著者がその人たちのために書いているところの「自尊心だけはあるが、何をしてもうまく行かず、あきらめ寸前の若者たち」って、私に似ている。(若いという点だけは違っているが)

心当たりのある記述があまりに多いのである。

 

〇「優しさ教」の犠牲者

  真の意味で彼らが「優しさ」を選び取ったわけではない。彼らはいかに他人からい じめられようと、他人から傷つけられようと、他人から人格を否定されようと、「優しくある」ことしかできないのだ。

 その他人に向かっていくことができず、その他人の攻撃をガンと拒否することさえできないのだ。しかも、そういう自分に自己嫌悪を覚えている。としたら、彼らはいかなる意味でも「正しく」はない。

 彼らは、生き抜くための勇気を徹底的に排除した劣悪な環境に育てられた犠牲者なのである。

 世の中、いい子であり優しい子ばかりいれば何の問題もないであろう。

 だが、残念ながら、人間の住む世界はそうなっていないのである。

 こんなにあたりまえのことを、なぜ大人たちは子供たちに教えないのであろう。

 人生「優しい」だけでは、人を信頼するだけでは、人に愛を注ぐだけでは、人を赦すだけでは、生きていけない。

 いや、生きていける。その場合は、凄まじい不利益を被ることを覚悟すべきだ。

 長々と引用したが、ここに書かれている「優しさ教の犠牲者」がそっくり私なのに驚いた。他にもけっこういるんだ。

 でも、著者の言うほど多くないと思う。これは構造的な事象であって、誰もみな、自分より強い人間に対しては「向かっていくことができない」が、少しでも弱い人間に対してはガンガン牙をむく。

 私はどうかというと、残念ながら私より弱い人間には会ったことがない。どんな弱い奴も、いや弱ければ弱いほど、「こいつになら勝てそうだ」と見て私にかかってくる。

それでもやり返せない。なんか、変わった生き物を見るような感じでじっと見てしまう。

 私をやっつけたりマウンティングしたからと言って彼らはどんな意味でも得はしないだろう。周囲から好感を持たれることもないだろう。なぜ、かかってくるのか、不思議。でも、この本の著者の言うごとく、世の中にはそういう人が「いる」のだ。

 最近やっと、「優しさ教」ではやっていけないことに気付いた。ひどい目にあってやっと分かったのである。そして自分がキリスト者でもコルベ神父でもないとという自覚が遅まきながら芽生えて来た。やられ放題やられましょうという覚悟はない。やっぱり、辛い。誰も、助けてくれない。自分で立ち上がらねば、と。

 もしほんとに自分より弱い者が現れて、嫌な奴だったりしたら、私も小さい牙をむくのだろうか・・・でも、たぶん出来ない気がする。そういうタイプ。やられていいと言う覚悟はないが、出来ない。

 

〇新型の弱者

すなわち、人間関係が破綻するゆえどんな仕事も続けられない人、世間が無性に怖い人、むやみに傷つきやすい人、他人を絶対に信じられない人、こんな弱い自分は生きている価値がないと思い込んでいる人

  この前半部分はまさにそうである。

 でも、自分は生きている価値がないとは思っていない。(そこがバカなのかも)

 

〇そうならないためには

そうならないための唯一の道は、現実に力を獲得することしかない。そして強者とは、可能な強者ではなく、あくまでも、現実の強者なのだ。現実に力を得ることによってのみ、彼の可能性もまた実証されるのである。

  ここのところ、勘違いかも知れないけれど、共感している。強くなろうと決意する。自分をつぶさず、守ると決める。負けまくっても、立ち上がって歩いていく強さを身に着ける。筋トレをして、自分の時間に集中して、下手な文章を書きまくる。(なんてね)

 

この他、「対等な人間関係を結べない」など、思い当たる指摘がてんこ盛りだった。

でもあたしはやっぱり、そこから歩き始めたい。「畜群」の人たちに歯向かうのは怖いけれど、彼らに同化することも自分には出来ないと分かったからだ。

同化していると見せかけようとしても、彼らは私が「別物」であることを見抜く。そして衆を頼んでかかってくる。もう戦うしかないんだ。強くなるしかないんだ。

私は、「超人」にも「畜群」にもなれない。なりたくないのではなく、なれない。