トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

『デッドエンドの思い出』 よしもとばなな 文藝春秋

五つのラブストーリー。

「幽霊の家」は、岩倉君とせっちゃんの恋の物語。

岩倉君は「この町ではかなり有名なロールケーキ店の一人息子」であり、せっちゃんは「隣町にあるそこそこ有名な洋食屋の娘。

せっちゃんは、まじめで堅実な生活を送り、後継ぎになることを当然と思っている。

岩倉君は自分の運命に反発してヨーロッパへ菓子作りの修行にでかける。

岩倉君が自分の育った街を離れたいと考えた理由、≪育ちが良くて、気のいい自分のままで生きるのではなく、その気の良さをほんものに育てたいという気持ち≫ がいい。

裕福で平和で余裕があるとき大抵の人は「気がいい」。でもそれは本当の気の良さではない。このままだと自分は自分に都合が良い時だけの「気の良さ」しか持てないか、もしくは黒いものを育てて行ってしまうか知れない、と岩倉君は思うのだ。

深い。自分に都合のいいときだけの「気の良さ」で満足してしまい、それはかなりの確率で「自己都合に対する甘さ」に変質してしまい、明るく可愛い良い子が自分の欲望のために他人を踏みにじるようになってしまうことがある。これって、末っ子に多い気がする。

人生の途中までは、こういう人はとても幸せに見える。それが罠なんだと多くの人は気づかない。うかうかと気分よく過ごしているうちに性格の深みとか、思いやりとか、性格の中の真摯な部分とかを失ってしまうのだ。ただ運が良くて苦労のない人、何かに打ち込んで苦労して自分を育てていない人は薄っぺらい。

表題の「幽霊」の大家さん夫婦には古いヨーロッパの映画に出てくるような雰囲気がある。幽霊たちがただそこにいるということで、若い二人をある種の預言のように、または見えない祝福のように、結び付ける力になったというところも素敵。

 

「おかあさーん!」

社員食堂でカレーに入れられた毒にあたってしまい、倒れた「私」。

犯人は会社に恨みを持つ元社員で、すぐにつかまり、「私」は手当てを受け命は助かった。弱みを見せたくなくて無理して職場に復帰したが、その毒は思いのほか彼女を蝕んでいた。体は無理がきいても、彼女の精神は悲鳴をあげていたのだ。

周囲に温かく見守られながらゆっくりと回復する過程で、「私」は幼いころに虐待された記憶を掘り起こし、父と母と幼い「私」の三人の家庭の本当の姿を思い出す。誰にとっても望んでいない結末を迎えてしまった家族だったが、そこには確かに愛があったことを。

現実ではうまくいかなかった、悲惨な側面を持つ家族であったとしても、自分の心の中奥深くには愛のある家族が生きているのだと「私」は気づく。

人としての明るさや強さ、自分を肯定する気持ちは、心の中にある家族の愛によって守られているのだと思う。それを持たない人は永遠に、心からの明るさは持てない。

そして、それは、たぶん与えられるものではなく、自分で作り出すものだと思う。

実際の「私」の母がどうであったかは分からない。たぶん、愛の部分と影の部分の両方があり、あるときその陰の部分が愛を凌駕してしまって彼女を辛い目に合わせてしまったのだと思う。

しかし、愛は、なかったわけではない。

「私」はその現実の中から愛の部分を取り出し、心の中でそっと育むことを知っていたのだ。

人はみなそうやって生きているのだと思う。

愛の部分ではなく悪意や憎しみを取り出して、心の中に住まわせ餌をやって育てている人もいる。

どんな思いを心の中に住まわせ、何を育てるかは、自分が決めることだ。

画家が実際の景色の中からモチーフを取り出して自分の絵を描くのと同じで、何を取り出してどんな絵を描くかは、自分の自由なのだ。

私は悲しい出来事によく負けて、暗い色で絵を描いてしまう傾向がある。それは、良くないことだ。暗い絵は別の暗い色を呼び寄せてしまうから。自分で自分を殺してしまうことになるから。

どこかでぐっと受け止めて、自分の所で暗い色彩の流れを止め、他人や世間から押し付けられたのではない自分の美しい絵を描くことでしか、私が生き延びることは出来ない。

私自身の親について言えば、愛を紡ぐことの下手な人たちだったのだと思う。虐待などはなかったが、精神的にはかなりネグレクトだった気もする。でも一生懸命気にかけて愛してくれたのも事実だ。私も親として似たようなものだが、彼らよりはほんの少し多く、育児に愛を込めることが出来たのではないかと思う側面がある。それがつまり、私が愛されて育ったということなのだ。

 

「ともちゃんの幸せ」

静かにしているというのが、ともちゃんの心にとっていつでもとても大切なことだった。

心の揺れや変化がともちゃんにとっては十分「旅」だった。

ともちゃんにとっては(辛い記憶よりも)移り変わっていく景色や吹いていく風や、いつもすわる古びたベンチの冷たい感触のほうがずっと勝っていた。

ともちゃんには友達が少なかったが、~中略~ 大切にしているものが数限りなくあった。大切にしているものがきれいな輪になってまわりに存在していることが、ともちゃんにとっての人生だった。

 引用している部分は、どれにも共感でき、読むだけで心が癒される。

私の人生も、マウンティングシスターズから見たらさえないものかも知れないが、「何か大切なものをこつこつと貯金していく」人生だし、そうあり続けたいと思う。

 

「デッドエンドの思い出」

さて、作者が一番好きな作品だと書いておられた表題作だが、私はあまり好きではなかった。

なぜなら、ミミを振った「高梨君」が最低。

心変わりは仕様がないが、婚約までした相手を半年以上放っておいて、自分は早くも新しい彼女と新生活を始め、結婚まで決めているなんてあり?

「すべて冬にちゃんとするつもりだった」って、どこまで人を引っ張るつもりだったのか。

人間としても社会人としても、こういうやり方は最低だと思う。

「ミミは衝撃に耐えられないから」って、それは自分が言うのが辛いからだろう。他人にはどんな酷いことをしても平気だが、自分が悪い子になるのは嫌なのだ。ほんとうに良い人なのではなく、世間に向けての良い人。

しかも100万円を借りっぱなし。西山君が言いに行ってあげなかったら、そのままにするつもりだったのか。

そして言われても返す持ち合わせがないという金の無さもいやだ。一千万円とか一億とかなら分かるけれど、百万円だよ。何とか出来るはず。それを自分の使用中の車で勘弁してほしいなんて。

ミミさん、こんなやつとは別れてほんっとに正解だよと言ってあげたい。

相手の女も負けず劣らず嫌な女だ。

高梨君と住む部屋をきれいに飾り付けていたり、貧乏くさいところが彼に相応だ。

「私は、はじめはこっちにいるときだけの恋人でいいと思っていたんです。」

勝利宣言としか思えない。人の恋人を取ったくせに恩着せがましい。何も知らず訪ねて来たミミさんにそれを言う? 同じ女として心が痛まないのか。

でも、ミミさんは、ほんとは高梨君のことを好きではなかったのだと思う。その点では、ミミさんのことをほんとには理解していなかった高梨君と同じだ。心の中でもうそれほど大切ではなくなっていたから、疎遠になっても心変わりに気付かなかったんだと思う。

この高梨君と新しい彼女はけっこううまく行くと思う。こういう温かみのない人たちには、深い思いが無い分、軋轢も生まれにくいのだ。

ミミさんは、深く傷つく分余計に、日々の生活や、人との関りや、人生のあれこれからより素晴らしい宝物を得ていくのだと思う。

それは優劣ではなく、人としての方向性の違いだ。

「どうしようもない気持ちだった私に、神様がふわっとかけてくれた毛布」のような西山君との日々も、その宝物の一つだったのだ。