トマト丸 北へ!

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怨望の人は度し難し、されど

「怨望の人は度し難し」

これは、確か大江健三郎さんがどこかに書かれていたと思う。

怨望の人を力づけたり、その要求を満足させたりすることは出来ない。何をしても、しなくても、彼らは怨望を捨てない。もうそれが自分自身の生きる拠り所となっているから。

<怨望にとりつかれた者とは関わるな。それ以外に彼らとうまくやっていく方法はない。> というような内容だったと思う。

「怨望」については、福沢諭吉の「学問ノススメ」に書かれている。

怨望を抱く人は、自分を高めようとするのではなく、他人を陥れることによって満足を得ようとする。自分に得になることをすることではなく、他人に害を与えるところに満足を感じるのだ。

「その交際に害あるものに、怨望より大なるものはなし」とある。

「このような者の不満を満足させようとすれば、世間一般の幸福が阻害されるだけで何の得にもならない」

怨望の人、けっこういる。

Sちゃんがそう。何を言っても悪く取り、何を言っても怒る。彼女との会話には毒がある。特に言い争いとかをしない場合でも、必ず何か後味の悪さが残る。私の幸福、私の成功は彼女の不幸だ。自分を卑下したり、不幸な出来事、苦しみについて語ることは許されるが、ちょっとでも喜んでいると臭い泥をぶつけずには居られないようだ。それが意図してではなく無意識なのだから、質が悪い。

Sちゃんだけではない。親しい人の幸運を喜ぶことは、意外に難しいものだ。他人の不幸が自分の幸福になる人は多い。アフリカ奥地に住んでいる人の幸せは祈れても、隣人の幸せはうざったいという人、多いと思う。

でも、それだけでなく、追い求めるものの第一が「他人の不幸」になってしまったらもう病的であり、「怨望の人」と言えるのだろうと思う。そういう人はどうしても幸せになれない。自ら幸せを遠ざけてしまうようだ。

だが、福沢諭吉が言っているのは、関わるなということだけでなく、そういう人が現れる原因を指摘している。

「人間の自然な働き、自由を行き詰まらせることが怨望を生む」と。

例として御殿女中たちの閉鎖的な社会が挙げられている。彼女たちの価値観は他人に認められるところにある。幸福が他人に左右されているのだ。

怨望ばかりで他人の足を引っ張ることばかり考えているから、いざ主人が大変な状況になってしまったとき、適切な行動が出来なくなっているとある。

これを読んで希望が出て来た。

関わってもろくなことは無いが、予防の方法はあるということだと思う。そこに自由な風が吹いていれば、怨望は生まれないのかも。

自分がそうならないために、率直に語ること。自分に嘘をつかないこと。なるべく「ありのままの自分」から出て来たことを語るようにして、「あるべき自分」から発する言葉によって自分を飾らないことだ。

そして自分の関わる場所を、可能な限り、そこに居る人々が自分自身でいられる自由な場とすること。

後者は自分がキーパーソンでなければ実現が難しい。ヒエラルキーの底辺にいる人間には場の雰囲気を操作することは難しいのだ。

だから、強く、力を持たなければならない。まずは自分が自由な言葉を発することだが、場の雰囲気を変えることができるような輝きと強さを持ちたいものだと思う。私には難しいけれど。

なるのは困難だし、万が一力を持った時、その力を他人を圧迫することに向かわせないも、かなり難しいことだ。だから、その「力」とは、「権力」であってはだめなのだと思う。

でも、強い人、権威ある人でなくても、ひとりが自由な空気を呼吸していることは少しは影響を与えると思う。だからまずは自分だけでも守ろう。他人を圧迫するのを止めよう。 

こんなことを考えた。