トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

『ニューヨークの24時間』 千葉敦子 文春文庫

1990年に第一刷が刊行されたので、現在では当然のコンピュータの使い方などが最先端のこととなっているが、それ以外は今でもけっして古くはなっていない内容である。

私は、この人を敬愛している。

乳がんの手術をし、再発の告知を受け、自分に残された時間を強く意識したとき、彼女はニューヨークへの移住を決意した。

普通なら仕事を止めて入院するとか、家族の下で療養に専念するとか、そんな選択肢を選ぶ人が多いだろう。しかし彼女は違った。

残り少ないかも知れない人生だからこそ、新しい環境で充実した人生を歩もうと決意したのだ。

この考え方に共感する。

これって、全てのことに言えると思う。例えば80歳を越えたら、もう余生だ。新しいことに挑戦するなど無謀だ。今までの充実した人生を振り返りながら残り少ない時間を味わって過ごそうと思う人がいる。

これはこれでいいと思う。でも、残り時間が少ないかどうか、後どのくらいあるのか、誰にも分からない。今日終わるかも知れないが、十余年も元気で過ごせるかも知れない。そして今日終わるとしても、若いころの体力や知力は失われているとしても、新しいことに挑戦しない理由にはならないと私は思うのだ。

そのアグレッシブな姿勢と夢中になれる仕事を持っていることが、私と彼女との共通点だ。(もちろん、質量共に、私は彼女に遠く及ばないが。「共通点」などと口走るのもおこがましいことは承知だが)

 

P23 自分の人生の中心に、自己燃焼できるものを据えてからでなければ、時間の使い方について語り合うことはできない。

 

そういうことである。語り合うだけでなく、関り合うのも嫌だ。私は人生の中心が定まっていない人、そのために他人の時間を無駄に浪費して顧みない人が嫌いだ。そういう人は、自分で人生を楽しむ代わりに他人にマウンティングすることで心を充たそうとする。こういう人には「傾聴」してあげても無駄だ。他人の時間を奪うことを何とも思わないからだ。

 

P61 一日の計画の中に「自分のための贈り物」を入れる。

  一日に最低一つはひとのために尽くす計画を持ちたい

 

この2点が、千葉敦子さんらしいところで、好きなところだ。

 

P62 1日の終わりに、ほんのちょっと、ひとのために何かをしてあげれば、それで気分が随分よくなります。

 何も大仰なことでなくても

 

ちょっとしたことでいいと書かれている。

 

他にも、「締め切り時刻を自分で設定しておく」「出張の支度は常に備えておく」「不愉快なことを追い出す」など、役に立つ具体的な提言がいくつもあった。

 

また、「読書こそ最高の楽しみ」とする点も私と同じで親近感が持てる。

しかも彼女は、「つまらないと分かったら直ちに読むのをやめます」と書いている。

彼女は、映画でも演劇でも、つまらないときにはすぐ席を立つと他の所に書いている。

私は今までそうする勇気がなかったが、彼女の本を読んでから途中で本を捨てたり、さっと席を立ったりできるようになった。くだらない会話も打ち切れるようになった。

これは、大きい。ほんとに、今まで何を遠慮していたのだろうと思う。

 

終わりごろに、彼女が親から受け継いだものが書かれている。

父親からは「精神を集中して短時間に仕事を仕上げる」こと、母からは「世界の動きに常に関心を持ち、世界を見渡す習慣をつける」こと、二人から「世間にどう思われるかを気にするよりも、自己の信ずることを行う」こと。

両親を偶像視するのではなく、彼らの欠点も冷静に認識しながら、二人から受け継いだ良いものを大切に自分の中で育てている。彼女がドライな仕事人間ではない所以だと思う。

 

その他心に残ったのは、「旅は、決まった日常のサイクルから離れた時間帯に身を置くこと」、「貯金より自分への投資を」、「絶対的な安全というものはこの世に存在しない」などだ。

特に最後の言葉には深く共感する。

新型コロナの猛威で、私たちが当然のこととして享受していた「日常」はもろくも崩れ去ってしまった。そしてこのコロナの脅威というものは、実際のウィルスよりもむしろ精神的なものではないかという気がする。

ともあれ、私たちに「日常」にしがみついていてもだめなのだということを知らしめた病だと思う。動くことなくそこに止まっていたら、現状維持ではなく後退であり、負けなのだ。なぜなら自分一人がしがみついていても、いなくても、世界は無常であり、どんどん変化していってしまうからだ。