トマト丸 北へ!

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独創的ということ(ノートより)

古いノートにまた一つけっこう良い書き抜きがあった。

こざかいとしあきさんの言葉。

 

「どうしたら独創的なものができるか」という問いは、そもそも出発点からして間違っている。

「差別化」を思うとき、すでに他人と比較している。そこがそもそも独創的でない。

 

「本当に大切なのは、自分自身と向き合うこと」

 

このごろ句会で思うのは、「どうしたら他の人より点が入るか」という比較の世界に引きずり込まれそうになっているな、自分、ということ。私にとっては楽しむためのものなのに、点が入ったらうれしい、入らなかったらしょんぼり、となってしまいがちなのだ。そこまでならまだいいが、それが同情であっても忖度であっても、ともかく点が欲しい、となってしまったりする。

わたしより酷い人も居て、句会の前にうまい人に添削してもらって、それがほとんど原型をとどめないものとなっていても、結果点が入れば嬉しいらしい。それって、あなたの俳句ではないでしょう。

でも、私も、気の張る句会にお試しで出る前に先輩に句を選んでもらったことがあるから、他人のことは言えない。そういうことだ。

句会は、お互いに点を入れ合うのが楽しいのだから一喜一憂していいし、それを励みに上達もするのだろうが、比較が目的になってしまうのは「創作の楽しみ」を奪うことだ。俳句が出来なくなって来たのは、私が「他人の目に映る自分」に捉われて、自分で自分をがんじがらめにしているからなのかも知れない。

俳句は正直にその人を表す。人生経験豊かな人、生活を大事に楽しんでいる人、人生に求めるものがはっきりしている人、心にワクワクがある人。みんな、その人なりの句になっている。自分以上の句は作れないのだ。

私の場合、他人を恐れて自分を隠そうとしている。自分で自分をがんじがらめに規制し、他人の目を気にするあまり自分の真実の姿を隠そうとする気持ちがとても強い。だから巧拙以前に人の心に刺さらないのだ。保護色に覆われた俳句だから、佳作がせいぜいなのだ。

俳句というダイレクトに感情を表現しない様式に惹かれているのは私のそういう性向からなのだが、実はまさにその小さな穴から飛び出して自分を解放するために作り続けているのかも。

自分らしい句を楽しんで作るという原点にもう一度戻ってみよう。

こざかいさんの、「本当に大切なのは、自分自身と向き合うこと」という言葉、心に響く。

表現の巧拙はあるが、魅力のある句は素直な自分の心情から発せられた句だ。そこへ戻ろう。