トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

本、手帳、シャーペン&本気

ベタだが、読書と書くことが好きだ。

活字中毒。書くのも俳句、エッセイ、手紙、小説、シナリオ、なんでもいい。ノートと太字のシャープペンシル必携だ。

本、ノート(手帳)、シャーペンの三点セットが無いと情緒不安定になる。

でも、書けなくなることも多い。際限なくソリティアを続ける。パズルゲームが止められなくなる。

なんでかな。

最近気づいたのだが、私は人が嫌いだ。はっきり言って引きこもりだ。

優しくて、好意を持ってくれてると分かっていても、仲良くなりそうになると速攻(?)逃げてしまう。

なぜだろう。

私は実の姉も嫌っているのだが、その理由をつくづく考えていて、思い当たったことがある。

私は姉を信用できない。姉が私の不幸を願っているような気がしてならない。だから嫌いなのだ。

いや、「だから」ではない。姉が私を嫌う理由も(上から物言う、自己中、など)分かるように思うから、無理もないと。嫌なのは、姉が私を嫌っていると認めない点だ。姉は自分を善人だと思っているが、善人なのではなく、「世間から善人だと思われたい」という強い気持ちを持っているだけなのだ。だから、思いやりのある振りをする。自分の中の悪意はかけらも認めない。その欺瞞が嫌でたまらないのだ。

姉が意地悪で嫌な奴だったら、少しは好意が持続したかも。

私は、表面だけ軋轢ないように流すことが、出来ない。

なぜ流せないのか、つくづくと考えて思い当たった。

私自身が嘘つきだからなのだ。

相手が間違っていると思っても、そうねそうねと聞いている。たてまえを捨てられない。戦う勇気がないくせに負けた振りをしているように装う。

書くことも話す内容も、外界に忖度しまくりなのだ。

ほんとに純粋で良い人間なのならそれでいいけれど、私のは、世間に過剰適応しているだけなのだ。それで、書く力、話す力、生きる力がどんどん減り、エネルギーのレベルが低下してしまっているのだ。

たぶん、中途半端に頭の良い女の子が、支配的なゴッドマザーと支配的なゴッドファーザーに育てられたからだと思う。両親に迎合することが生きる道だったし、その方法が分かる程度には頭が良かった。こうすれば楽、こうしたら波風立たない、と分かっている時、違うことは出来なかった。それは自分にとって「違うこと」なのに、それが分からなかった。

こういう傾向はよくあることかもしれないが、私の場合は、それが顕著だということだ。

問題は幼少期だけでなく、長じてからも「いい子、可愛い子」であり続けようとし、それ以外の対人関係の築き方を身に付けられなかったことだ。ちょっと優しくされると、即気味悪い甘え声ですりよっていく。おもねる。姉を「こずるい」と思っていたが、私こそ、こずるい女なのであった。

私には友達が少ないし、長続きしないのだが、そんな気持ち悪い中高年を好きになる人など居なくて当たり前かも知れない。

ではあるが、書くことを止められず、書くことに依存して生きて来たのは、自分の中に「いい子でいられない」部分が残っているからだと思う。現実世界で自分が発揮できない分、言語表現への憧憬はより強く残存しているのかも知れない。

「書けない」というのは、書こうとしているということなのだ。

私の数少ない友達は、私の中の死にきれないトリックスターを見てくれているのかも知れなかった。

書きたくても書けない、所以である。書けないのに書こうとする、所以だ。

こんなことを考えるようになったきっかけは、岡本太郎さんの著書を、最近読んでいるからだ。それについては稿を改めて書きたい。

今、決意していることは、正直になること、率直になることだ。取り繕うことなく、おもねることなく、生きてみる。残り少ない人生を晴れ晴れと、ぶち切れながら、やり返されて倒れたり傷ついたりしながら、さばっと生きてみよう。

とりあえず、初対面の人にため口をきく、というのをやってみようかと思っている。ばあさんのため口なら、許されやすいだろうし。