昨日、元住んでいた場所へ行ったところ、以前私に悪くした人が老いてふらふらと歩いているのを見かけた。
「会長」という立場であったその人に人間関係の悩みを打ち明けたところ、それを相手にすっぱ抜いたあげく一緒になって私をいじめにかかった人だ。セクハラ、パワハラ、なんでもありの人だった。
今、体調も良くないのだろう。その上の精力的な歩き方ではなく、発散するエネルギーも、やっとのことでリハビリを頑張ってるという感じに見受けられた。
晴れ晴れとしていた気分が一瞬曇った。正直、ちょっと溜飲が下がる思いもあったが、そう感じる自分は、あまり好きではなかった。
思うのは、この人と私は波長が違うということだ。
この人に会うと、彼が元気でもむかつくし、みじめな印象であったとしても、やはり結局嫌な気分になるのだ。どちらにしても、この人は私のテンションを下げる人。
でも、この人も親切な場面があったし、今、一生懸命歩いて体調を整えようとしている。もしかしたら、病気から回復中でリハビリを頑張っているのかもしれない。一生懸命生きているのだと思う。
怒るのも、恨みに思うのも、違うという気がする。
こういう「合わない」人とは、できるだけ距離を置けばいいのだ。離れていられれば、できるだけ離れる。それがお互いのためだ。もし、出会ってしまったら、自分の心の中に入れず、そっと精神的に距離を置く。
たとえば、レストランのドレスコードのようなものだ。高級レストランはドレスコードがあるだろうが、それは店と客双方が心地よい時間を過ごすためだと思う。そこにふさわしい服装でないと自分も楽しくないし、レストランのほうでも、あまりにラフな服装の人は丁重にお断りするのではないか。(よく知らないけれど)
それは拒否するということではなく、お互いのために離れているということだ。テリトリーが違う。棲み分ける必要がある。自分と相手への思いやりで、愛を持って遠ざけるということだと思う。
やさしく、距離を置く。
世界のいろいろな場面で実際に行われていると思うし、有効な手段であることも多いような気がする。