トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

『サラバ!』 西加奈子 小学館文庫

間違っているかもしれないが、ある意味作者の自伝のような気分で読んだ。主人公は男の子だし、実際と違うことはわかっているが、作者の幼少時代の経験が生かされている

し、書くことへ至る軌跡が描かれている点は体験的なものだと思う。

西加奈子というとお砂糖菓子のような可愛らしい少女を思い浮かべてしまう(実際にそうだったのだろうし)のだが、この小説を読んで、葛藤のない人生など無いのだと思った。砂糖菓子のような女の子に小説は書けない。たぶん。

この小説は、読者として読むという感じではなく、私には、自分の中に太古から連なる遺伝子の連鎖があって、それをたどり、解きほぐしていく作業のようだった。端的に言えば主人公に共感したということになるのかもしれないが。

「夏枝おばさん」が好き。

P292 なにか特定の芸術を選択している状態を誰かに評価されることには無関心で、ただひたすらに好きなものを好きという姿勢をつらぬいている。

夏枝おばさんが、すてき。

何をやろうとしても始めることが即競争の場に駆り出されることに直結してしまう現代において、自然体で自分の場所に立っている彼女に惹かれる。

自分の欲望にはうとくて、他人のために生きているように見えるがそうではなく、しっかりと自分の人生を歩んでいる。彼女のものを見る目はたしかだ。それは他人が認める確かさではなく、自分自身に忠実であるがゆえのたしかさなのだ。

ある意味、この物語の忌まわしい紐であるKさんのエピソードも印象深い。僕の父は昔Kさんと婚約していながら僕の母と恋に落ち、結婚することになる。K さんと母は親友だった。二人はそろってKさんにそのことを告げる。なんという残酷さ。

恋をしているときには、夢中で、他人の気持ちが思いやれない。しかし、残酷なことをしたという記憶は消えない。永遠にその罪から自由にはなれない。

そしてKさんに息子の住所を教えた祖母もまた、残酷だ。

ひどいことがなされてしまう。それが人生だ。そのひどい行為の上に、私たちは生きているのだ。

たとえば、今日、私はヒラメの活き作りを食べた。ヒラメはお皿の上でまだ生きていた。

なんという残酷な食卓だろう。でも私はぱくぱくとヒラメを食べた。

ひどい行いの上に私たちは生きている。

ひどいことをしながら、なんとか生きていく。ひどいことをされながら、生き延びる。

「ぼく」は、ひたすら息を殺して、自分を見えない存在とするという技術の助けを借りて、世間をたばかって生き延びた。

私たちは、いろんな方法で生き延びる。ほとんど自分自身を見失いながら、それでも必死に生きていく。

そうやって生き延びていくうちに、ある人たちは見失いかけた自分自身を見出し、「軸」を見つける。「僕」にとっては、それが「書くこと」だったのだと思う。

あ、それから又吉直樹さんの解説が面白かった。別の本の解説も良かった。又吉さん、いい。