トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

『在宅ひとり死のススメ』上野千鶴子著 文春新書

「施設でも病院でもなく大好きな自宅で自分らしい幸せな最期を迎えたい。その準備と心構え」をお伝えします、という本。

女性の2人に1人が90歳以上まで生きるそうだ。

私も後20年以上あるわけだ。

1万時間で一つのスキルを身に着けることができるそうだが、5年で1万時間と考えて、4つ挑戦できるということだ。

計算しても仕方がないが、でも、じっくりと楽しめる時間を与えられる可能性が大だということだ。どのように生きるのか、考えるのもいいかも。

基本的に「ねばならぬ」をやめて、やりたいことをやりたいときに出来るだけ、する。

大人が無邪気にというのも痛いかもしれないが、もうあまり考えなくていいような気がする。最後くらい、自分で自分を縛っていた縄から自由になって、自分を可愛がって過ごしたい。

最近引っ越したのは、老後の過ごし方を考えたからだった。一軒家を維持することは難しいし、なにより住んでいる場所に魅力がなかった。ひどい所だった。

ケア付きマンションも考えたが、どんなに景色の良いところにあったとしても、美味しい食堂がついていて、見守りの人も居て安心だとしても、私にとっては残念なポイントがいくつかあった。

①交通の便が悪い。自由に歩いて買い物がしたいし、図書館へも行きたい。

②年寄しかいない。年寄ばかり集まって暮らすのは辛気臭い。

③施設内のサークルでいじめられそうな気がする。そうなったとき、逃げ場が無い。

④食堂が一つだと、飽きそう。

⑤狭そう。

できるだけ長く気ままに過ごすためには「駅近のマンション」がいいと考えた。

今現在快適に過ごしているが、この選択が図らずも正解だったらしいと、この本を読んでわが意を得た思いだ。

ただ、筆者が言っているのは、後期高齢者になり、「ヨタヘロ期」が来たときのことだ。私はそこまで具体的に考えていなかったので、参考になった。

「ヨタヘロ期」とは要介護期のことだ。

介護が必要になったとき、介護される知恵が必要になる。

この時、施設に入るのではなく、子供など特定の個人に全面的におぶさるのではなく、つまり自立と自由を手放すことなく自分らしく生きるにはどうするかということだ。

「サービス付き高齢者住宅」に入るのは自立できることが条件らしいが、自立できるなら、わざわざ入る必要はない。自宅で、「訪問介護訪問看護、訪問医療」の3点セットを外付けすればよいだけ、だと筆者は言う。

「生きるとは、食べて、出して、清潔を保つということ」これが、「食事、排せつ、入浴」という3大介護だ。「この3点セットが維持できるあいだは生きられる」とある。

そのためには他人の手を借りてもいいのだから。そう考えると、ヨタヘロ期もそう暗くならなくていい気がしてくる。

また、「孤独死」(それは不幸ではないけれど、死後何か月もたってから発見されるというようなことは避けたい)を避けるためには、「死後の発見を早めればよいだけ」とのことだ。ほんとに、同感だ。

死の前後に誰か傍にいてほしいという人もいるだろうが、私はそうではない。よく、臨終の床で何か重大なことが語られるというドラマがあるが、可能ならば、生きている間に言えることは言っておけばいいと思う。元気な間のコミュニケーションをないがしろにしておいて最期の時にチャラにしようと思うより、伝えることがあるなら今連絡を取るべきだ。元気な時から自然に家族や友人に囲まれていて、その延長で臨終のときも周りに人がいるというのもとても素敵だから、それはいいと思う。

認知症を恐れない、特別視しない、という筆者のスタンスにも賛成だ。

遅かれ早かれ、程度の差こそあれ、人はみな「ヨタヘロ」になり、認知症になっていく。それは特別なことでもないし、不幸なことでもない。自然なことなのだ。

それは、「不便だが不幸じゃない。少し手伝ってもらえればたいがいのことはできる」とあり、たぶんそうだろうと思うのだ。

「美魔女」とか言われなくても、いい。年相応でけっこうだ。

「今日も目が覚めて、機嫌よく一日を暮らせる」ことがだいじなのだとあったが、これは私のモットーでもある。いろいろ弱ってくるし、脳も縮んでくるらしいからだんだんと難しくはなるかもしれないが、だからと言って嘆き暮らすこともないだろう。

「加齢とは、みんなが中途障害者になっていく過程。その中途障害のなかに、カラダの不自由だけでなく、アタマの不自由とココロの不自由、その全部、または一部の集合があるとすれば、認知症ケアの向かう方向は障害者ケアと同じ。社会のバリアフリーと心のバリアフリーを目指したいものです」と書かれている。

「ヨタヘロ」「認知障害」は、特殊な出来事ではなく、一部の心がけの悪い人に起こることでもなく、ほとんどみんなに起こる自然の出来事なのだ。

それを受け入れて、なるべく機嫌よく、自分らしく生きる工夫が大切なのだ。

で、「おひとり様の老後」。私もぜんぜん不幸だとは思わない。「生活満足度」が高いというのも、うなずける。私も自由の匂いを感じて「おひとり様」にワクワクしないでもないが、今、それは考えないことにしようと思う。

今、二人の世話を担っているが、今のところ、大した負担にはなっていない。食も住も衣も、一人でもしなければならないことが二人分になったからと言って手間が二倍になるわけではない。食事の工夫も、減塩など自分のためににもなることだ。

「一人暮らしの人間が同じ家に二人いる」のであれば夫婦である意味はなんなのか、と筆者は書いておられるが、薄いかかわりで気楽にしていられるのも長年一緒にいればこそで、二人で作ってきた形なのだ。

今私はシェアハウスにいるような気分でいる。経済的にはつれあいに依存し、生活的には私がほとんどの家事を担っている。若いころの私が今の私を見たら不甲斐ないと思うかもしれないが、まあ、なりゆきだ。この間まで自分を「居候」と言っていたが、「シェアハウス」の方がいいかも、と今は思っている。

犬は手がかかるが、負担に感じることはない。だって、可愛いもの。犬だってQOLが大事だから、できるだけ長く、健康で楽しく生きてほしい。できるだけ長く、一緒に遊び、散歩したい。散歩のお供がいるのはいいものだ。いつ、どこへ行こうとも喜び勇んでついてくる相手がいるのは、とても心和むことだ。

コロナのせいだけではなく遠出の旅がしにくいという点だけは残念だが、それも、コロナが解決したら将来工夫して行きたいと考えている。

この先にシングル・アゲインがあるとすれば、そのときもできるだけ元気でいられるように努力したい。でもそれも、特別なことではなく、今シングルだとしても気をつけることだから。