トマト丸 北へ!

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わたし、失敗するので!

新型コロナのニュースの最後に、「私たちにできることはいっそう気を引き締めて基本的な感染対策を徹底することです」と(したり顔で)言われることが多い。

これってどうなの? 私たちにできることは、もっと別にあるんじゃないかと思ったりする。間違っているかもしれないが、政府がもっと積極的にコロナ対策を講じるべきではないだろうか。「もっと積極的な対策を講じてください」と訴えることも「できること」「するべきこと」の一つではないのか。

「一生懸命やっている人たちを非難するなんてひどい」「批判する人たちが代わってやってみればいい」「今どうすればいいのか誰にも分からないのだから仕方がない」「今はコロナに対してワンチームでやってかなければならない時。分裂してる場合じゃない」等、批判を封じ政府や行政を擁護する声は大きく、批判は尻つぼみになりがちだ。

でも、自粛を強化して少し感染者が減少傾向になり、緩めて増加、また強化。これを繰り返すうちに次第に自粛の効果は低くなり、国民が疲弊し、弱者の苦しみが増しているというのが現状だと思う。もっと積極的な対策を講じてほしい。それができないのはなぜなのだろうか。

それは、「失敗したくない」からだと思う。

新型コロナについてはこれが正しい、こうすれば大丈夫という対策は今のところないようだ。ワクチンだけが頼みの綱だけれど、それもまだどうなるか不明瞭な部分がある。とにかく誰にも分からないのだ。政府を批判している野党の人たちを含めて誰がやってもうまく行かないのではないかという気がする。しかしだからと言って何もしないのはだめだと思う。データをいくら集めても何かやってみなければ何が効くか分からないではないか。それが出来ないのは失敗を恐れているからではないか。正解のあることしか出来ないという体質のせいではないのか。失敗を恐れているから前に進めないのではないか。

うまく行かなれば、「この方法はだめでした、このように改善してまた挑戦しましょう」と次々策を繰り出せばいいのにと思う。正解が分からないからやってみない、リスクがあるからやらないでは、何も進展しない。次にまたコロナのような感染症が出たときにも今と同じ対応しかできないだろう。

色々やってみることを国民はけっして非難しないだろうと思う。「この方法でやってみます。その理由はこうこうです」と毎回説明して、だめだったら「こういう点がだめでした。次は改善してこのやり方で」とまた説明したら、誰がそういう努力を非難するだろうか。非難する人がいても、大多数は支持するはずだ。それを信じて、失敗を恐れず、ごまかさず、大胆に対策を講じてほしいと思う。

そうでないと、GOTOトラベル、緊急事態宣言の時期のまずさ、GOTOEAT、オリンピックと感染抑止に逆行する施策ばかりではないかという印象になってしまう。現状を認め、今やっていることをもっと説明してくれれば安心できるのにと思うのだが。

失敗とそれがもたらす非難・批判を恐れるところに前進はないし、何もせず停滞していることは長い目で見れば大きな失策だと思う。批判、特に権力を持っている人たちへの批判は必要だけれど、一回転んだら集中砲火を浴びせて二度と立ち上がることを許さないという社会には自由も進歩もない。

「わたし、失敗するので」とみんながあっけからんと言うべきだと思う。どんな行動も見る側面によっては失敗なのだから。失敗しつつ進んで行くことしか我々はできないのだから。