トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

『52ヘルツのクジラたち』 町田そのこ 中央公論新社

2021年度本屋大賞第一位ということなので、さっそく買ってきた。

ちょっと都合よく事が運びすぎてるという気もする。確かに家庭では虐待されていたけれど、その辛さは軽視できるものではないけれど、キナコにはアンさん、美晴という最強の友人たちが出来た。こんな良い友達を持っている人は少ないと思う。

高校時代のキナコがバイトと学校に明け暮れ、はっきりと物を言う女の子であったことと、18歳から義父の介護をたった一人で担わされて生命のエネルギーを枯渇させるまでに至ったことが私の中ではうまく結びつかない。母の愛に飢えていたキナコは愛を得るためなら何でもしようとしていたのか。弱い子ならむしろ逃げ出すことが出来るけれど、やさしく強い子のほうが逆に親の餌食になってしまうということなのか。

と、多少突っ込みたくなる部分もあるが、キナコの切ない愛の物語はやはり胸を打つ。愛を知らずに育ったキナコがアンさんの真実の愛に気づかずアンさんを深く傷つけてしまった部分、その気持ちがよく分かる。キナコは本当はアンさんが「番の魂」だと分かっていたのだ。だからこそアンさんの心に踏み込むことが出来なかったのだと思う。本当に自分を愛してくれる人と距離を置いて、その価値のないまがい物に引っかかってしまう。いい人より嫌なやつにすり寄ってしまうの、分かる。自分にもそういうところがあるからだ。

「愛」とまで行かなくても、たとえば食堂に行ってお店の人と気が合いおしゃべりがはずむ。まれにこんなことがあると、もう二度とその店に行けなくなってしまう。行けたとしてもすごく感じの悪い態度を取ってしまったり、する。嫌だなという応対だと次も気軽に行けてしまう。酷さよりやさしさのほうが苦手なのだ。やさしさ、まして「愛」などにはどう対応すればいいのか分からないのだ。

『52ヘルツのクジラたち』という表題、秀逸だ。この表題だけでも読みたくなるし、その意味を知ったら胸に突き刺さる。他のクジラが聞き取ることのできない高い周波数でしか鳴けないクジラが「52ヘルツのクジラ」だ。誰とも出会うことが出来ない孤独なクジラだ。

母の愛に飢え、義父の介護に疲れ切って人と交流する力さえ失ってしまったキナコ、母親に虐待されて言葉を失った少年「愛」と「52ヘルツのクジラ」は切なく重なる。

アンさんはキナコの「魂の番」だったのにキナコはそれに気づかなかった。キナコは生きているアンさんとは心を通わせることはできなかったが、アンさんの深い愛は確かにキナコの心に届いていた。孤独の海を潜り抜けたキナコは新しい世界へ足を踏み出すことができたようだ。

「52ヘルツのクジラ」が多くの人の共感を得たということは、その人たちが孤独の海を泳いでいるということなのかもしれない。しかし孤独を感じているということは、聞こえない周波数であっても呼び掛けることを止めないということではないのか。呼び続けていれば必ずいつか誰かがその声を聴いてくれる。そんなことを思った。

 

52ヘルツのクジラたち

52ヘルツのクジラたち