トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

凍れる河に浸けられて

昨日から厳しい気分でいる。読むまいと思っていた苛めの記事を読んでしまった。少女は川に入って死んだ。なぜこのようなことが起こってしまうのか。

以下、見当違いもあるかもしれないが、後からでも寄り添おうとすることは意味があると思うので、考えたことを書く。

私が引っ掛かったのは、少女の母親の言葉。「娘をいじめた子供たちに不幸になってほしいとは思いません」「ただ、命の大切さを分かってほしい」と。

批判するつもりはないし、立派な言葉かもしれないとも思う。しかし私がその少女だったら、母親には「あいつら、八つ裂きにしても足りない」と言って欲しい。自分の大切な娘をひどい目に会わせた奴らは同じ目に会えばいいのにと憎んでほしい。

少女が通っていた中学校の校長の言葉はさらに酷い。「もともと家庭に問題のある扱いづらい子で注意深く接しなければならないと努力してきたが、悪い方へ行ってしまった」「自殺は家庭がうまく行っていないことが原因」「もともと自殺願望があった。苛めが原因ではない」「アンケートによればいじめはなかった」「いじめと言うより悪ふざけに近い」。

亡くなった少女が家庭に問題を抱え性格的にも弱い所があったというのは、そういうこともあったかもしれないとは思う。しかし問題の無い人間がいるだろうか。問題のある子なら虐められても文句は言えないのか。酷い姿を写真に撮ってばら撒くのは単なる悪ふざけなのか。

その校長の言葉として「加害者の子供たちにも将来がありますから」「命の大切さを言って聞かせました」というのもあった。

伝えられている校長の言葉から少女の味合わされた辛さを思いやる気持ちや救えなかった後悔や痛ましい思いは感じられない。

少女が苛めを訴えたとき、担任の教師は彼女との約束を破って相手生徒たちに少女の訴えたことを伝えたそうだ。彼らは担任の前で少女に謝った。ちくったという理由でその後苛めがエスカレートしたのは言うまでもない。

担任は少女の立場に立って考えることが出来なかったのだ。

この記事を読んで私が思ったのは、数の問題、強さの問題だということだ。

人は強い方に味方する。数が多い方が強いから、ほとんどの人はマジョリティについてしまうのだ。弱いものは見殺しにされることが多い。

新型コロナの流行も、日本では犠牲になっているのはごく一部の人たちだから、一般の人は自分が感染しないよう注意はするが世間的にまずくない範囲で羽根を伸ばしているのだ。若者は感染しても重症化するリスクが低いと思って出歩いていてけしからんと言う人がいるが、実は元気な高齢者も出歩き、グループで旅行したりしている。「自分たちは大丈夫。基礎疾患のある人はめいめいで気をつければいい。お気の毒ね」今実際に苦労しているのは飲食店の人たちや医療関係の人たち。大部分の人はそんなに困っていないのではないか。テレビのワイドナショーで言うほど大変なことになったとは思っていないような気がする。マイノリティの困窮は人々の心に響いていないかのようだ。

自殺に追い込まれた少女は圧倒的にマイノリティだった。孤立していたと言っていいのではないか。たぶん、家庭内でも孤立していたのではないかと思う。学校や担任や、当然彼女を保護し味方になってやるべき人たちも、あえて彼女の側に立つことはなかった。

虐められたことよりそのことの方が辛かったのではないだろうか。

私には少女の絶望がわかる気がする。彼女と同じではないが、共通項のある目に会っているからだ。

以前いた町会で、ある男から暴言を受けたとき、私が相談した町会長はそのことを本人にチクり、その後公然と彼の味方をした。仕事をすべて私に押し付け、「やれる人がやればいいんだ」と言った。家族に病人がおり右手は骨折していたのにめんどうな仕事をやらされ、「もっと頑張っている人がいますよ」とまで言われたのだ。暴言男は暴言を吐くだけあって強いから、強い方へ味方したわけだ。私が暴言男との関係を調整してほしいと思い町会長をするくらいだから人格者なのではないかと都合よく期待した人間は、へなちょこのエゴイストだったのだ。

あるときママ友たちがうちを訪れ、勝手に押入れを開けて中に入っていたお中元を取り出してみんなで分けて持って帰ってしまったことがあった。そのこともショックだったが、後で信頼し友達だと思っていたママ友にその話をしたところ「まあまあ」と薄ら笑いを浮かべただけだったのがもっとショックだった。「あなたたち、どうして分かり合えないの?」と単なるけんか、トラブルのように言うのだ。つまり彼女も数の多い方へついたのだ。

そして私がほんとうに絶望したのはこの話を聞いたときの連れ合いの言葉「おまえがしっかりしていないからそういうことになるんだ」だった。

味方が一人もいない!

実家の母親も「他人の悪口を言ってるようでは嫌われるのが当たり前よ」と言った。

ひとりも味方がいない。私の心はぼろぼろになった。

強いものが弱い者を虐めることにひとつの正当性もない。虐められる側にどんな欠点があったとしても、弱いだめな人間だったとしても、いじめることは不当な行為だ。それでも弱いものはやられる。それはいつでもどこでも起こりうることだ。

そのとき、一人でも味方がいれば人は立ち上がれるのにと思う。生きて行けるのに。

私が生き延びたのは子供と犬がいたからだ。それと自然と本が私を癒してくれた。空や星や月を見るのが好きだった。木や花や草が周りにあった。好きな本もあった。

でも、彼らには負けた。戦うことすらできなかったのだ。自分が悪い、だめだと思ってしまった。

今思うのは、私は負けてはいけなかったのだと言うことだ。世界中が自分を見捨てても私は自分の味方をするべきだった。それなのに私は彼らに屈服して自分を虐めるマジョリティの一員になってしまった。とても勝てないからそっち側についてしまうという。「死んだ方がまし」「私ってだめなんです」が口癖になった。

あの自殺した少女は私の中にも居たと思う。私は自分を虐める人たちに屈服することで自分の中にいる「あの少女」を見捨ててしまったのだ。自分で自分を見捨ててしまうと、どこへ行ってもだめだ。それどころか助けの手が差し伸べられてさえ、その手をつかめなくなってしまう。助けの手をつかむことは、今や私自身がその一部となっている虐めグループに敵対することになってしまうから、出来ないのだ。

虐めのもっとも酷いところは、自分で自分を攻撃するように仕向けてしまうところだ。行きつくところは自死だ。

私は生き延びた。まだ人を助けるところまでは行かないが、自分で自分を虐めるのはもうやめようと思う。今、私はあの町会を離れて安全なところにいるから強そうなことが言えているが、町会長や隣家の女の分身が現れたらまたやられてしまうかもわからない。でも自分で自分を見捨てることだけはもうするまいと思う。あの少女を二度と冷たい川へ飛び込ませないために。