トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

私も歴史の証人なんだと思う今日この頃

戦争を知らない子供たち」である私たちは、日本の中でだけだが、戦争の無い平和を享受して育ち、右肩上がりの経済をほぼ当然のこととして生きてきた。私など中学に上がるまではなぜか「第二次大戦で戦争が悪いということを人類は学んだ。だからもう世界から戦争はなくなったのだ」と思い込んでいたくらいだ。

「日本人は優秀であり、日本は民主的な文明国で科学と経済の発展によりほぼ全国民が健康で幸せに暮らしている。」と憲法の前文のようなことを現実のことと信じていたのだ。今でも日本は他の多くの国と比べて良い国だと思う。清潔な衣服、便利で清潔な住まい、自由な言論、デモをしても即逮捕されたりしない。その気があれば学問、スポーツ、芝居など好きなことが出来て飢える心配がない。

でも私は一部の人たちほど楽観的ではない。日本の国の将来に関してはひとまず置いておくとして、自分自身の将来についてとても楽観的な人たちがいるのに驚く。私にとっては不思議なのだが、「自分は絶対に不幸に見舞われない」と信じ切っているのだ。知り合いの一人が(奇しくも「幸子」という名前なのだが)、常々「幸せすぎて怖いくらい」と言ってる。その彼女がたまに(彼女としては)悲観的になったときに言うことが、「家族全員が幸せでなければ幸せを感じられないから、難しい」という言葉なんである。つまり自分の幸せは当然だが、家族全員については「少し」不安がある、ということだ。

何を根拠にそこまで確信をもって幸せなのか分からないが、そう思えることが幸せなのかもしれない。もちろん本人がそう思っている以上誰にも否定はできない。むしろ立派だと言えるかもしれない。

しかし大事にされている幼い子供のように、私にはぜったいに不幸なことは起こらないと信じているのだ。自分は特別だと。幼い子供なら絶対親が守ってくれると信じていていいが、十代までなら若さゆえの傲慢もありだと思うが、中年をはるか過ぎてこれはどうなのだろう? 想像力が極端に不足しているのではないだろうか。

同じように世の中に一定数、自分に関してだけすべてにノーリスクだと信じ込んでいる人が存在する。それが仮定であれば、当然だと思う。数々のリスクが現実化するのではないかと常に不安に捉われていたら、とても生きてはいけない。今日一日はたぶん交通事故にもあわず、通り魔にも襲われず、階段から落ちたりしない、生き延びることが出来ると仮定していなければ、何も行動できなくなってしまう。しかし「突然の災禍」の可能性は誰にでも平等に存在する。その可能性がゼロだと信じている人が一定数存在するみたいなのがふしぎ。それは一種の選民思想だと思うのだが。

今、「私は新型コロナに感染しない」と信じている人がけっこういるような気がする。むしろ「感染するかも」と不安に思っている人のほうが少ないのではないだろうか。感染するのはどこかの誰か、運の悪い誰かだと。

そして政府も、「日本はだいじょうぶだ」と信じているいるような気がする。日本がコロナにやられることなどあり得ない。ずっと前、「日本は神国だから絶対に負けない。いざというときは神風が吹く」と信じていたように、どんな負荷をかけても、コロナ対策がオリンピック関係者限定で国民のための病床を確保することには熱心でなくても、ワクチン接種が進んでなくても、とにかく日本人はダイジョブ! だと信じ切っているような気がする。

その確信の前には、冷静な判断のほうが間違っているのではないかと感じてしまうくらいだ。大きなリスクを伴う賭けの手札にされている国民自体も、私たちがそんなひどいことになるわけない、日本はどこかの国とは違う文化国家だし、日本人は優秀なんだから大丈夫よ、と安心しているみたいに見える。満面に笑みをたたえて手をふりながら走っている聖火ランナーたちを見ていると、特にそんな気がする。聖火を持って走る自分の姿を見て誰か元気づけられると本気で思っているのだろうか。

私は不安だが、はっきりした見通しもないし、どんな確信もない。ただ、これから日本がどうなるのか、誰がどういう行動をするのか、何を言い、何を言わないのか、ずっと見て居ようと思う。良くない結果にならないよう祈ることしかできないが、せめて自分の身を守るよう努力することしかできないが、よく見ることは可能だ。

ふだん政治経済にはほとんど関心のない私だったが、この否応なしに生活を規制する新型コロナのためにワイドショー、新聞なども見るようになった。その結果世の中の人々についての認識が今までとは違ってきた。世の中には嘘つきもいるし、利己的な動機のみで行動する人もいるし、保身のために沈黙を守る人もいる。もちろん立派な人もいる。そういうのが見えてきたような気がする。

不安なのは、日本発のパンデミックが野火のように広がるのではないかということ、それにより与党に対する信頼感が揺らいだあげく、人々が偽物の受け皿に殺到してしまうのではないかということだ。ファッショの時代が来るのがいちばん怖い。その萌芽はもうすでにあちこちに見えている気もするのだ。

もう一つの不安は、上記のことに関連するが、勇気を持って発言する人たちが酷い目に合うのではないかということ。オリンピックのこともコロナのことも、賢い人たちは当たり障りのないことしか発言していない気がする。ある賢そうなタレントが「それを言っても何の得にもならない」と言ったことがある。おおむねの反応は、やっぱりこの人は賢い、芸能界を生き抜くにはこうでなくちゃ、というものだったと記憶している。自分の考えを勇気を持って発言することは、日本ではリスクが大きく、好感度も低い行動なのらしい。それをやるのはおっちょこちょいのおバカさんなのらしい。でも、それでいいのだろうか。力のある人たちが力のある者につくというのが、「賢い」行動なのだろうか。しかし「鳥も鳴かずば撃たれまいに」と思わせる現実が存在する。多くを持っている人が自分の既得権益を失うことを恐れる気持ちも分かる。それが、怖い。

このパンデミックは幻想でも錯覚でもなく現実だ。朝になったら覚める夢でもない。そよ風なのか屁なのかは知らないが、国民が疲弊しているのは事実だ。「戦争を知らない」私たちが初めて国家的な危機を体験する可能性もある。せめて、出来るだけアンテナを張って良く見ていようと思う。