トマト丸 北へ!

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反撃できない人を大勢で非難するのはいじめだと思う

人間を分ける方法はいろいろある。朝はご飯を食べるかパンなどそれ以外のものを食べるか、楽観的か悲観的か、スポーツ好きかそうでないか、などなど。で、非難されやすい人とそうでない人、という分類もできる。

世の中には何かと非難されやすい人もいるが、あまり人の口の端に登らない人もいる。同じことをしても、弱い立場の人の方が非難されやすいように思う。社会的な立場の強さや好かれているがどうか、強い味方がいるかどうか、などが要因となって非難されやすさが決まるのではないか。

反論や反撃をしたくても出来ない場合も非難されやすくなると思う。その非難は妥当でないこともあるが、何にせよいったん「非難される側」に回ってしまうと長期間逃れることが難しい場合がある。

早く言えば「弱い者いじめ」だ。言ってる側は正義と思っているかも分からないが、当たっているかどうかは別にして、一方的にしかも多勢に無勢で言い募るのは酷い。言われる側の気持になってみればすぐに理不尽さが分かることだ。

世の中にひとりも自分の立場に立ってくれる人がいないということは、人を絶望させると思う。絶望していても、あるいは絶望していることが分からずに、攻撃は続けられる。強者が自分の利害から攻撃することもあるが、同じ弱者が日頃の鬱憤を晴らすためにやり返してくる心配の無い相手を攻撃し続けることもあるだろう。どちらにしても酷いことだ。

その反面、当然批判を受けて良い人が見過ごされることも多い。強い立場の人は、利害の絡む人から援護してもらえることも多い(だから強いのだが)。また、キャラであまり追及されない人もいる。一度の浮気で総スカンを食う人もいれば、繰り返しても笑いで見過ごされる人もいる。

言いたいことは、世の中は理不尽だということだ。『サピエンス全史』にあった言葉だが、「歴史に正義は無い」。よく、自分が救われたり成功したりしたとき「やっぱり神様はいる」とか言う人がいるが、神がいたとしても大変に不公平であることは自明のことだ。いじめに快感を感じる人も、存在する。悪口を言うと嫌われるという意見もあるが、悪口を言わないタイプのごく少数の人たちからは嫌われるかもしれないが、言う人が強ければ容認されるものだ。というか、ワルクチって、みんな好きだよね。言われる側は死ぬほど辛くても、言う方は容赦ないし、楽しんでさえいる。

世の中の理不尽さは無くならない。出来るのは、自分が負けないことと、自分がそれをしないこと、可能なら弱い立場の人に代わって発言すること、この3つだと思う。

ただ、弱い立場の人に代わって発言するのは難しい。へたな擁護が新たな攻撃を誘発してしまうこともあるからだ。それでも勇気を持つべきだ。賢さと覚悟のいることだけれど。