トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

いぢめはほんとにいけないと思う今日この頃の実感

炒め物をした後ガス台をキッチンタオルで拭く。30秒もかからない。

こんなことがなぜ以前は出来なかったのだろうとふしぎだ。でも、出来なかった。目の前の小さな作業が出来ない。一日中じっとすくんでいる。本も読めない。音楽も聞けない。たまに元気が出て色々片付けるけれど、その元気はすぐにしぼんでしまう。こんな状態が長く続いて、私はだめな人間だと内外共に刷り込まれてきた。エネルギーが枯渇していたみたいだ。

引っ越して、一気にラクになった。ほかの人と比べればまだまだかも知れないが、体重が半分になった気がする。月世界にいるとこんな感じ?

人のせいにして恐縮だけれど、前の町会の意地悪な人たちと離れたせいだと思う。よってたかって他人をあげつらう。へこたれていると叩き、元気にしていると抑え込もうとする。暴言を吐く。暴言を支持する。セクハラ、パワハラを浴びせかける。

あの人たち、法律には違反していないかもしれないが、それどころかボランティアなどもして「いい人」として通っているが、いや、だからこそ許せない気がする。ほんとうに良くないと思う。

繰り返し思い出し、ひどいと思い、自分の不甲斐なさに打ちのめされる。

わざわざ仕返しに行く気もしないし、その方法も分からないし、そのパワーもないけれど、ほんとに理不尽だと思う。

原因と結果の法則って、ほんとなのかな。実感として、自分的にはけっこうすぐに報いを受けてる気もする。でも、私をいじめた人たちは、けっこう栄えている。多少は不幸な目にも合っているが、ぜんぜん応えていないように見える。つまりは自分のことも他人の苦しみもあまり感じない人たちなのかも。鈍感さは幸福感と強く結びついているのかも。

もちろん他人のことは分からない。彼らがきっと私が苦しんでいるなどとは全然慮っていないように、私も彼らの内面など分かっていないのだ。私が私なりに一生懸命生きているように、彼らもまた、すべて良かれと思って一生懸命なのだろう。しかしそれも、ほんとのところは分からない。

つまりは考えても無駄だということだと思う。むしろ思い出して苦しむだけ自分が損なのだ。

できることは今に集中することと、もうなるべくそういう目に合わないよう自分が強くなることだけだ。自分がそういうことをしない、できれば人を助けることができるように、なりたい。

いぢめも、それを見過ごすことも、ほんとによくない。目に見えて肉体を傷つける行為は犯罪になるけれど、精神的な攻撃はやり放題。悪いことをしたとも思わない人々が、いる。だけどやられるほうはほんとに苦しみ、人格を傷つけられているのだ。

さて、何かされた時それを恨みに思っただけでも「自分の」罪になるとどこかに書かれていた。それを恨めば、ひどいことをした当人よりも被害者のほうが悪いカルマを負う、とある。別の説では、悪いことをした人は必ず自分にそれが返ってくるから、仕返しなど考える必要はないと説く。これも、どうなのか分からない。

やはり、考えてもむだだということだと思う。「神の石臼が回るのは遅い」というように、仮に報いがあったとしてもサクサクと実現するわけではないから見届けるのは不可能に近い。神に代わって実行できたとしてもそれが正しいかどうか分からないし、けっしていい気分にはならない。

すんだことはどうしようもないということ。これからはもう、そういうことをさせないように自分が出来るだけ強くなるしかない。自分はしないし、されている人には手を差し伸べることができるように。

でも、自分がされて、いぢめは良くないと骨身にしみて分かったのは良かった。そういう醜い行為はある程度無知と想像力の欠如から来ているのだから。

辛い目に会った私は、そうでない時よりかは物事が理解できるようになり、想像力も深くなった(自分比だが)。だからその前よりも良い人間になり、幸福に生きられる(自分比です)。良い人間は不幸にはならないのだから。そうか、幸せを感じられることが幸せなんだな。

とりとめもないけれど、こんなことを考えました。

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