トマト丸 北へ!

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「大豆田とわ子と三人の元夫」とスカーレットの憂鬱

「大豆田とわ子と三人の元夫」が終わったけれど、残像のようなものが私の心を漂っている。

ドラマって不思議で、放送されている期間はそのドラマを毎週楽しみにして登場人物を家族のように案じたり喜んだり彼らに怒ったりするのに、終わってしまうとまるでもともと存在しなかったかのように生活の中から消えてしまう。ほんのわずかな数の人たちだけが、放送が終わった後も心の中に住み続ける。私には、それがまるで現実で出会った人たちと同じに感じられるのだ。

このドラマも、かごめの死から後はあまり観なかったけれど、気になる人の消息を折に触れて尋ねるのと同じように物語の進行は常に把握し、時々は観るようにしていた。そして心の中のかごめの映像は消えないままで、それでもやっと彼女の死を受け入れられるようになった。それくらい好きなキャラだったんです。今では、彼女の存在はその死でもって完結したのかも知れないとさえ思える。

現実の世界でも、数回しか会わなくてもいつの間にか心の中に住み着いていたり深い影響を与えたりする人がいるように、かごめも親友のように忘れられない。大好き。

で、主人公のとわ子さん。もとより最高に魅力的な女性だ。彼女だからこそ成立するのだが、3人の元夫との関係はけっこう羨ましいものだ。女性としてもっとも居心地の良い関係が「元夫」かも。裏表なく知っている同士で甘えようと思えば甘えられるし、何か頼むのも頼みやすいし、信頼できるし、相手はこっちをまだ愛しているし。(それでもけっして甘えず距離を取るところが、とわ子、最高にクール! だからこそ成り立つ元夫との心地よい関係!)

この「元」が取れて「夫」となってしまうと、こうは行かない。様々たいへんな煩わしいしがらみがあり、その義務のために心地よさもかすんでしまう(かも)。

風と共に去りぬ』のスカーレットは最初の結婚をした直後、人生の楽しみの大部分(つまり異性との交流)が過去のものになり「人妻」としての束縛にとってかわったことを悟って愕然とするのだが、「夫を得る」というのはそういうことだ。

その点「元夫」は良い。とわ子はスカーレットの憂鬱を味わうことなく、自由でありつつ、「親しい男の関心と愛と保護」というおいしいところをそれも3人分(!)享受しているのだ。

しかし繰り返すが、それもこれもとわ子が自立した魅力的な女性だから成り立つのであって、それを自然に演じることの出来る松たか子だから成立するドラマなのである。

とわ子とかごめ、二人とも素敵だった。余韻に浸れるいいドラマだったな。