トマト丸 北へ!

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オリンピックの楽曲担当者のいじめ問題で思うこと

オリンピック開会式の楽曲を担当するO氏のいじめ問題の報道を見て2つの感想を持った。

①実はこのニュースに接して、苛めについて嫌悪を表明している人が多いことにちょっと安心した。

池田晶子さんが倫理と道徳の違いについて書かれていて、それは私の解釈だとこうなる。例えば「人を殺すことはなぜ悪いか」について。

人を殺すのは嫌だからしない。その行為に耐えられないから殺さない。これが倫理。なぜいけないのかとか言う以前に殺人は悪いこと嫌なことだと心の中で決まっている。

一方道徳は人を殺すことを禁じている。つまり規則だということ。法律だけでなく、暗黙のルールや世間の批判、非難などでその行為を制限することができる。それが道徳。外から規制されて初めて行動が変容するのであって、理屈でいくら説明しても「殺人に快感を覚える、なぜ悪いことなのかわからない」という人をなっとくさせることはできない。

虐めについても、そんな行為は嫌だからしないという人間と、世間から非難されるからしない、やるときはおもしろいから虐めてしまったけれど世間から非難されたら謝るという人種とが存在すると思う。

実際、いじめが楽しいという人はけっこういる。高校時代に新米の教師をいじめた話を楽しそうに話してくれた人がいた。大勢でクラスメイトを「ハブった」話を得意そうに(そしてなつかしそうに)話すのを聞いたこともある。その程度の「いじめ」は通常問題にならない。その人が有名人でその話が公になりSNSで非難されたりしたら謝罪するかもすれないが、そうでなければ一時の座興だ。

今回は相当酷いいじめをしたらしい。しかもそれを平気で自分から話していたらしい。

その人の本心はわからない。心の中では苦しんでいたのかもわからない。

ただ、これについて嫌悪を表明している人が大勢いるのをテレビで知って、私は少し安心した。こういうの、嫌だと思っている人が多いということにほっとした。これが逆で、みんなが「よくあることですよ」と笑って流すという状況を想像すると恐ろしい。そうでなくてほんとに良かった。世の中、まだだいじょうぶだ。

②「サンデージャポン」の太田さんのスタンスも尊いと思った。

「数十年前の記事は誇張があったかもわからない」「あのころは今と時代が違う」「彼は腹を括っているのかもしれない」等々の太田さんの意見。

もちろん反論できるし、賛成でもない。でも、「そうですよね。ひどい話ですよね」と同調しておけば無難なところを、なぜ彼はここまで言い張ったのか、考えた。

太田さんは、みんなで一人の人を非難する、いわば言論によるリンチのような状況に反論していたのだと思う。みんなが集団になってひとりをつぶそうとする行為にあえて異を唱えたのだと考える。いかにそれが正論であろうと、大きな流れが無慈悲にひとりを責めさいなむ姿が嫌なのだと思う。その中にはほんとうにそれが正しいと思って言う人も自分の考えで発言している人もいるだろうが、中には尻馬に乗って他人を断罪する心地よさに身をゆだねている人もいるかもわからない。それもまた恐ろしいことなのだ。身を切る感じで大勢とは違う意見をあえて言う。私の勝手な思い込みかもしれないけれど、太田さんの姿勢を尊いと思った。