トマト丸 北へ!

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小山田さん問題の経過を見ていると「業界人」が怖くなる

太田光さんの「弁明」をヤフーニュースで読んだ。

ああいう酷い記事が表に出たこと、それに対して当時批判の声も上がらなかったという社会状況も考えなくてはという説明だと思う。私が思ったのとは違っていた。

理屈はわかるけれど、それなら、その社会状況の未熟さを言うべきだったのではないだろうか。どっちの立場に立って物を言っているかは重要だと思う。

だからやっぱりここでも太田さんは言葉足らずなのであって、本心は小山田さん非難の声はもう十分挙がっているから、これ以上叩きのめすことを避けたかったのだと思う。

あえて違う意見を言うってことは貴重な行為だと思う。許されない行為をしてしまった人、世界中が非難している人を別の見方からも見ようという姿勢は尊い。必要な行為でもある。ただ、どちらの方に重点を置くかは、だいじだ。そのスタンスに、誤解を生む余地があった。

太田さんだけではなく、他の人たちの(彼の辞任は)「やむを得ないことだと思う」「これを機会に共生への道へ向かって」などの表現に違和感を覚える。こういう言い方をする人って、この問題にショックを受けていないのかなという気がする。私の感じ方がナイーブ過ぎるのだろうか。流して先へ進もうとしているような気がする。

いじめの内容の酷さを思うとき、これって犯罪かなと思う。暴力事件ではないの? もし事実と違う点があるなら、はっきり言うべきだ。始めに雑誌に載ってから後今までの間に数回この問題が取り上げられた(「蒸し返された」という表現だったが)というが、そのときの対応はどうだったのだろうか。スルーされてきたのだとしたら怖い。断罪も謝罪も贖罪もなしで、ただ年月が経ったというだけで許されることではない。もし贖罪的なことを何かやっているなら、それも言うべきだ。もう社会的な事件になっているのだから。

例えば過去に強姦を犯した人がいて、その詳細を自慢気に話すという行為も行っていて、それを雑誌で発表して、それが数十年後初めて公に批判されたというとき、昔のことだからね、とはならないと思う。もし刑事事件としては時効になっていたとしても、それですませていいのだろうか。

それを掲載した雑誌も、急に紋切り型の謝罪をしているけれど、どうなのかと思う。「そういう露悪的な風潮があった」「あのころは特に問題にならなかったんですよね」と言う人もいる。その記事を知って慄然としなかったのかなと思う。

これって、落語の「らくだ」なんかとはまったく次元の違う話だ。その違いがわからないのが恐ろしい。

こういう記事を載せた雑誌が廃刊にもならず存続しているのが、怖い。言葉だけでなく、ほんとうに何か贖罪の動きを見せてほしい。

「死ぬまで許されないのか?」とか「叩きのめすのはどうだろうか」という意見も見たが、もちろんいろいろな考え方があると思うが、どちらの立場に立ってるかは、どちらにシンパシーを感じているかは、大きい違いだ。

この意見の人たちは、小山田さんの記事を知らなかったのかなと思う。今まで知らなかったのならいいけれど、もし、知っていたなら、いじめを受けた人のために発言したのかなと思ってしまう。そのときは言わないで、今、小山田さんが批判されてると批判が厳しすぎると言うのだったら卑怯と言うしかない。

虐められた人が声を上げることも出来ず、雑誌というメディアでさらし者になり、あまつさえ笑いものにされたとき、その人のために声を上げたのだろうか? 知らなかったのなら仕方ないけれど、そのとき知っていて声を上げなかったというなら、その人は虐められた人より虐めた「業界の仲間」のほうにより共感を覚える人だということなのではないだろうか。虐められた人や家族がその傷を抱えて生きてきたことを思いやるより、加害者の人権や今後のことのほうが気になるのだとしたら、その冷淡さが恐ろしい。(もちろん加害者はどうなっても当然だと言ってるわけではない。)

私もいじめのようなことをしていたと反省のようなことを言っている人もいるが、これって、みんないじめはやってる、わたしもあなたもということで、小山田さんのいじめのあくどさを薄めようとしているような気がする。一億総懺悔で結局誰も悪くないと。虐められた人への同情よりも、なんとかして小山田さんを助けたいという気持ち、いじめる側への理解の気持のほうが強いのではないかと私が感じるのは邪推だろうか。小山田さんへの共感がなければ、あんなふうに他人ごとのように「私も反省」の弁を述べることができるはずないという気がするし、それが私は怖い。

オリンピック開会式の楽曲などの企画で小山田さんをその仕事に呼び、一緒に仕事をしていた人たちが怖い。業界人でもあり親しくしていたのなら、彼がどういうことをしてきたか、知ってたはず。(たぶん彼らにとってはオリンピックは特別の理念を持って開催されるものではなく、ただのイベントだという認識だったのだと思うが。でなければこんなことが起こるはずがない)また、この人を「今は高い倫理観をもっている」と評したIOCの人が怖い。

何十年も前のこととはいえ、あの記事を平気で公表した雑誌の人たちも怖いし、今でも実際にNHKの教育番組で彼に仕事をさせていた人たちが怖い。公共放送なのに。子供たちが見る番組なのに!

NHKの担当の人は非難されないのだろうか。何も処分はないのだろうか。彼を起用した経緯は説明されないのだろうか。業界ではそんなこと当たり前なのだろうか。

それも、怖いことだ。怖くてたまらない。