江戸を舞台にした12の短編が集められている。いずれも市井の片隅に生きるつましい庶民の物語だ。
これを読んで、人は皆「死にたくない、生きたい」と願っているのだと思った。生き延びるために、愛する者を永らえさせるために必死になって働く普通の人たちのいとおしさ、哀れさ、孤独が胸を打つ。救われない気持ちになる悲しい話が大部分だ。
しかし読後感は悪いものではない。それは登場人物たちへ向ける作者のまなざしが温かいからだ。しんと心に沁みる柔らかな冬の日差しのような視線だ。
もちろん創作された人物たちだけれど、登場する人たちと同じような人生を生きてきた人は多いと思う。運命に翻弄され慰めも救いもなく虐げられる人々に、しかしなおよりよく生きようとあがく姿に、作者は光を当てた。書かれることそのことが彼らにとっての鎮魂でありひとつの救いだと思う。
ほんとにみんな、本の中の人物と思えないリアリティだ。他人とは思えない。本のページに飛び込んで行って、「名前を彫っちゃだめ!」と佐吉の手を押さえたい。捨松のところへおにぎり持って駆けつけたい。
特に印象に残ったのは、第七話「だるま猫」。
極貧の家に育ち、悲惨な人生、惨めな自分からのがれるために「火消し」になろうとする文次はしかし、火消しにとっては致命的な、極端に火を恐れる性格だった。火消しを首になった文次は頭に紹介された角蔵の一膳飯屋で働き始める。しかし文次はどうしても火消しになりたかった。
この文次の気持、すごくよくわかる。今までの人生、今までの惨めな自分を払拭して新しい自分になるためには普通の世過ぎではだめなのだ。過去が惨めであればあるだけ、いっそうパッとした華やかな仕事にあこがれる。さえない人生を送って来た私には、その気持ちがよく分かる。
だから、文次を諭す角蔵のことばは私の胸にも沁みた。
「だがな、臆病者には臆病者の生き方がある。酷なようだが、俺はそう思う。おめえが苦しんでるのは、臆病者の自分から、なんとか逃げ出したいと思っているからだ。どんな手を使ってでも逃げ出したいと思っているからだ。だが、文次、それは本当じゃねえ。臆病者の自分を大切にしてやる道が、どこかにきっとあるはずだ。」
全文引用したいくらい、心打たれた。
この話の凄惨な終わり方と「文次逃げるな」という角蔵の言葉を私も忘れられそうにない。
そして最後の「紙吹雪」。
ぎんの動作、ぎんの目に見えた景色、ひとつひとつがいとおしく、美しい。
屋根に上って紙吹雪を降らせるぎんの笑み、頭上に広がっていた「雲ひとつない真冬の青空」を確かに私も見たような気がする。