トマト丸 北へ!

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宮部みゆき『ぼんくら』は「サイダーハウス・ルール」の世界

 

 

 

 読み始めてすぐ、ジョン・アーヴィング原作の映画「サイダーハウス・ルール」を思い出した。

1999年のアメリカ映画だ。孤児院でラーチ医師の手伝いをしながら医術を身に着けた青年ホーマーは、外の世界を観たいという願望から孤児院を出てサイダーハウス(リンゴ農園)で働き始める。農作業員たちの住む小屋の壁に貼ってあった紙に書かれているのがここの規則「サイダーハウス・ルール」なのだ。

彼の成長と共にこの「サイダーハウス・ルール」の意味が明らかになっていく。大切なのは上から決められた規則(つまりは「道徳」ということだと思う)ではなく、自分たちが生きるために必要な、ほんとうに人を救うルールだ。そのルールはお仕着せのものではなく自分たちで決めたものであるべきだ。だいじなのは、見栄でも世間体でもない。人の心、人の命なのだ。

映画「サイダーハウス・ルール」を見て感じたのと同じようなことを感じた。

八丁堀の同心井筒平四郎の父は気難しい人物で、子どもである平四郎を可愛がることもなく邪険に取り扱っていた。そこで平四郎は十くらいの時分「いっそあんな父上など死んでしまえばよい」と思い、敷居の上で飛んだり跳ねたりした。そのころ敷居を踏むとその家の当主に身に災いがふりかかるという迷信があったからだ。

べつに何も起こりはしなかったが、平四郎は幼心に「迷信など当てにならぬ」と悟った。主人公はそういう人物だ。とんだ親不孝者なのだ。しかし自分の心にまっすぐに向き合って、無理に押さえつけたりしない。

「迷信」には、当時人が守るべきことと信じられていた「親孝行」などの美徳も含まれる。どんな親であっても、子たるもの孝養を尽くすべしと世間は言い、人々はなんの疑いもなくそれを信じて実行していたのだ。たとえどんな親であっても。

しかし平四郎は「いくら娘だからって、博打狂いの親父を見捨てていけないというわけはない」と思うのである。

そういう平四郎のキャラ設定が、この物語のいちばんの魅力になっている。ことさらに世間の常識にたてつくわけではないが、出世にも手柄にも勤務成績にも興味はない。楽しみはお徳の煮売り屋でコンニャクなどをつまみ食いすることだ。仕事である「見回り」についても独自の見解を持っていて、お徳の煮物をついばみながら路地を通る人々を眺めることも「見回り」の一環なのである。

平四郎が重んじるのは、自分たちの心に沿う自然な気持ちだ。自分もそうありたいと願っているし、他の人たちにも無理にがんばってほしいとは思わない。平四郎がいくら暢気な性格でもこの世は桃源郷ではないし陰惨な事件が起こりもするのだが、彼の目を通して見ることが救いになっているのだと思う。

鉄瓶長屋に次々と起こる事件の謎。めくるめく展開を見せるそれらは、漆黒の糸で織られた曼陀羅のようだ。その中にのんびりと穏やかに、平四郎がいる。