トマト丸 北へ!

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アラフォー女子のリア充自慢に思う

すごくおもしろいエッセイを読んだ。

でも、共感は無い。

たぶん、この人と同じ立場の人、アラフォーでキャリアウーマンで、仕事も友人関係のプライベートもうまく行っている人だけが共感できる文章ではないのか。というか、そうでない人々の共感を著者は拒否しているような気がした。私の勝手な感想だが、そう思った。

群ようこさんがどこかに、好きなように暮らして好きな物も買えて、今の生活に何の不満もないと書いておられた。文才と人間力あふれる女性。そういう人が書いたものに共感できないということはない。独身だろうが既婚だろうが離婚した後の独身であろうが、どこかに普遍的なもの、人間の深い所に通じるものがあれば共感も感動もする。桐島洋子さんのような破天荒な生き方をされた人の書いたものも、何か通じるところを感じさせる力がある。

どこが違うのかな。

思ったのは、掘り下げる力のあるなしだ。掘り下げる力は苦労したり、戦ったりしたときに得られるものだと思う。このアラフォーの著者はシャープで文章もうまいけれど、性格も良さそうだけれど、いかにも若い。

末っ子で愛されて育ち、大人しい男の元へ嫁いで自由気ままに生きてきた人がいる。悪い人じゃないし、ボランティアをしたり地域のために働いたりもしている。いい人だと言われるし、幸せな人生かもしれない。

幸せな人生かもしれないが、その人を見ていて、うらやましいという気がしない。(余計なお世話だが)いかにも「安い」気がする。その人が、会うと必ずリア充自慢をする。それが、自分が偽物だと知っている人間のあがきのように見えてしまうのだ。

話していて言葉のどこかにふっと心に触れるものがある人は、必ず苦労している。苦労してその苦労に向き合って逃げずに生きてきた人は他人の痛みがわかる。そのほうが「幸運」に恵まれてあまり苦労なしにやってきた人よりも幸せなのではないだろうか。その苦労が身について「善き人」になっている、もしくは「善く生きようとしている」人の方が幸せだと思うのだ。

実を言うと、著者の人生は私がそうありたかった人生だ。独身でバリバリ働いて、自立して生きたかった。著者のように楽しくかつ良い人間関係を築きたかった。しかし思うに任せぬ人生だった。誰のせいでもない、自分のがんばりが無かった、力が無かった。そういう思いを強く持っている。

私は著者をそねんでいるわけではない。この本を読んで私が感じたことは、自分の人生もそう悪くはなかったのかも、それなりに得るものはあったのかも、ということだった。