ひろゆきさんの「けんかしても仲直りできる」という提言に触発されて、小さなけんか? を実践してみた。
①まず一人目。ある血縁の人物。必要があってメールしたら、とても私の嫌がることが返信されてきた。いつもなら小さなことだと心をなだめて忘れるよう努めるのだが、いちおう言ってみようと。
彼のメールの文言が私には不愉快だったこと。その理由。これが続くなら縁を切りたいくらいだと言うこと。この3点を申し述べてみた。
返事は、「気を悪くさせてすみませんでした。」という一文。
無駄だった。この人を知っているから思うのだが、なにか底知れない怒りも感じた。
ひろゆさんの言葉を頼りに、仲直りの一手を打ってみる。「こちらも言い過ぎました。」とメール。
すると「ありがとう。安心しました。」まさかのハートマーク付き。
げんなりした。なにも、伝わらない。相手の考えていることは、人を自分の思い通りに動かしたい、それだけのような気がする。自分の望む文言以外、目にも耳にも入らないのだ。
なぜ電話でなくメールなのかと言うと、電話だと相手が奔流のように何十分も話続けて、こちらは相槌をうつチャンスもないからだ。
これは失敗。仲直りできない相手もいるということだ。立ち去ることしかできない相手もいる。立ち去り、振り向かない。
②コーヒー店で。
この日はめずらしくイートイン。窓際の気に入りの席で本を読んでいると、騒がしい談笑の声。どうもカウンター付近。「お休みなんですか! いいですねえ!」大声の会話がかなり続く。騒がしくされるのが苦手だ。だからたいていテイクアウトして公園とかで飲んでいるのだ。公共の場なんだから騒がないでほしい。それにこういう時世なのだから、小声でしゃべってほしい。
がまんせず、抗議行動を起こそうと思った。それは、音源のほうを「見る」というもの。かなりの勇気が必要な行為だが、何もしないで怒りをため込むよりはいいと思った。
ドキドキしながら振り向く、見る。視線に気づいた彼らが見返す。しかし音源は収まらなかった。もう帰ろう。
しかし帰り際、いつものマニュアルの「ありがとうございました。」が聞こえなかった。カウンターのほうを見ると、店員さんたちが隅の方に固まって、表情も硬くこちらを見ていた。
「あぶないばあさん」だと思われたのか。振り向いて見たとき、怒りが顔に出てしまっていたのか。どちらにしても、とうぶんそのお店には行けそうにない。行きたくない。
①②ともに失敗のようだ。慣れないことはするものではない、ということかもしれない。
感想は、それでも言って良かった、だ。なぜなら嫌な気分が残らなかった。無力感もない。あたしにとっては、行動できたというだけで大したことなのだ。①はもともとあまり良い関係ではなくこれ以上悪くなりようもない。「立ち去る」決心ができただけ良かった。②は、とうぶんそこへ行かなければいいだけだ。○○〇がなければ△△△もあるさ。