先日、犬を連れた年配の女性とすれ違った。こちらは車上だったが、ばっちりと目が合った。
犬は中型の柴犬系の毛並みで、ほっそりと足が長い。まだ若く、瞳はつぶら。柴犬および柴犬系が大好きだ。
楽しい気分でいたワタクシは、すれ違うとき(正確には犬にだったのだが、強引に目を合わせて来たので)女性ににっこりうなずいた。
女性は表情を動かさずにこっちの顔を見ている。ややけげんそうでもある。それはワタクシを知らないからというより、この女に愛想よく挨拶される覚えないのにという意地悪な感慨が込められているように見えた。この表情……なにか見覚えがあるような。
記憶の糸をたぐって某女だと思い当たった。住所から考えてもこの辺りを散歩していてふしぎではない。
そうとわかっていれば、たとえ飼い犬にでもにっこりするのではなかった。意地悪そうな表情、変わっていない。換わったばかりの職場でコピー機の使い方に悩んでいるのをさも軽蔑したように見ていたあの表情だ。側にいた人が見かねて、「初めて使うのに戸惑うのは当たり前よ」と言って助け舟を出さずにはいられなかった、あの表情である。質の悪い、女らしい細かい意地悪をたんとしてくれた人だ。
あれから二十年以上も経っているのに、少し太っただけで、外見も表情もあまりの変わらなさに驚く。因果応報もなく、あんなに嫌われていたのにもかかわらず元気でつつがなく生きているようだ。
亡き夫に愛されていたというのが自慢で、「洋服はぜんぶ夫が見立ててくれた」と言っていた。そんなに愛された思い出があるなら少しはやさしい人柄になりそうなものだが、どうしてこんななのだろうとふしぎに思った。こずるい威張り屋の、どこをその夫は愛したのだろうかと。
ワタクシの結論は、愛さないタイプの人は相手がどんなに愛らしくやさしくても愛さないし、愛する人はどんな相手であっても愛するのではないかというものだった。そういう哲学的な感慨すら与える人だったのだ。
でも、忌憚なくにっこりできて良かった。動じなかった(ように見えたと思う)だけワタクシの勝ちだ。