実家の姓の印が押されている古ーい本。父の蔵書だったものだ。
ワタクシの父は時代小説が好きだった。鱒書房、剣豪新書、なつかしい気がする。山手樹一郎が特に好きだった。「遠山の金さん」とか。講談本もたくさんあったのに、父の死後母なのか姉なのか、さっさと処分してしまった。かろうじていくつか持ち出した中の一冊がこれだ。
時刻は、正午下り。
うららかな日である。
街道の左右には見えるかぎり、」
と始まる文章は声に出して読みたくなる語り口だ。情景がくっと迫ってくる。「海音寺潮五郎」というペンネームも、いかにも重厚で「作家」という感じがする。
うららかな街道を行き交う人々。しかし、突如放れた猛犬が老武士とその娘に襲い掛かる。
時は元禄六年、犬公方綱吉の治世であり、犬を傷つけることも追い払うことも許されない。二人は進退窮まっていた。犬はしだいに間を詰めてくる。反撃されないことを知っているのだ。
「おのれ畜生の分際で」
怒りに震える老武士がついに刀の柄に手を掛けたそのとき、「お待ちなさい」と声をかけて、ひとりの若い武士が犬の前に立ちふさがった。
くーっ、かっこいい! さっそうと現れたこの若者こそが後の堀部安兵衛その人なのだ。
義理と人情と武士道と、人の誠。封建の世に立てる武士の一分が心に刺さる作品だ。
こういうのが好きだったんだよなあ、と、幼いころの自分や父をなつかしく思い出した。