トマト丸 北へ!

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筑摩現代文学大系39「佐多稲子 林芙美子 集」

佐多稲子の作品は初めて読んだ。

『素足の娘』『灰色の午後』の2作品が収められている。

読後感は、体温が伝わってくる、だ。もっと言えば、隠蔽されたヰタ・セクスアリスのような感じだ。

年代的に性の話は率直にしないものだというのが染みついている。以前住んでいた所では若い奥さん仲間が無邪気に話題にするのでビックリポンであった。学生時代の友人ともあまりそんな話はしていない私。人妻ってすごい! と思った。

でも、まるでそれが存在しないかのように日常を送るのも変な気がする。「秘め事」めくのもかえっていやらしい。性の表現には品性が表れる。

佐多稲子の作品から、私は性の匂いを感じる。体臭が伝わってくる。そこに、自分と向き合う真摯な姿勢を感じる。自立しようと言う激しい気迫を感じる。

自立と性は切り離せない。ほんとうに自立しようとしたら、自らの性ともきちんと向き合うべきだ。そんなことを思った。もっと若い時に読むべきだったのかもしれない。

林芙美子の住居というのが尾道にあった。東京で林芙美子が自分で設計して建てた家も見学したことがある。『放浪記』があまりにも有名なので知っている気になっていたが、実はしっかりと読んだことはない。

今回あらためて『浮雲』『風琴と魚の町』『清貧の書』『牡蠣』『晩菊』の4作品を読んだ。

けっして明るい話ではないが、引き込まれて読む。

浮雲』のゆき子は印象的なヒロインだ。美人ではないが、男を引き込む暗いエネルギーを持っている女だ。第二次大戦中の仏印ダラットで富岡とゆき子は出会う。富岡は農林省林業調査の仕事をしており、ゆき子はタイピストとして赴任したのだ。富岡には内地に妻がいたけれど、二人は結ばれる。

いろいろないきさつは省くが、大要はゆき子が富岡と結ばれたいと願い、富岡が引き寄せられて行ったのだ。終戦後日本に戻ってからも、煮え切らない富岡と違ってゆき子の生は一貫して富岡へと向かい、富岡を誘引している。お金のためでもない、そこに幸せが待っているわけでもないのに、富岡と共にいることしかゆき子にはないのだ。

富岡はけっして積極的ではないし、内心ゆき子が接触してくることを迷惑に思っているのだが、ずるずると引き込まれるようにゆき子を連れて屋久島へ赴任する。

富岡には人生の中心になるものが何も無いが、ゆき子には富岡がいるのだった。

芙美子のヒロインは、みな、どうしても男が必要なのだった。愛がなくてもいい。特に惹かれていなくてもいいし、ひとりでは食べて行けないわけでもないのだと思う。みんな生活力はあるのだ。そこが、不思議。

『風琴と魚の町』。貧しい両親。詐欺まがいの商売をして日銭を稼ぎ、時に警察で屈辱的な取り調べを受ける養父を見つめるまさこのまなざしが切ない。でもまさこは愛されて育っている。極貧ながら一人娘を必死で育て、肩寄せ合って生きている、切なくて愛しい家族の物語だ。