トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

『クララとお日さま』 カズオ・イシグロ 早川書房 (ネタバレありです)

その辺の子どもよりうちの犬の方がテーブルマナーがいい。犬同伴のレストランでは、ほとんどの犬が静かに座っている中で騒いでいるのは人間の子どもたちであることが多い。性格だってある種の大人よりうちのマルのほうが穏やかで愛情深く、口数も少なく、可愛い。

このごろ、自分を含めて人間って、たいして立派じゃないと認識するようになった。というか長い間、私は自分の作った「基本すてきであるべき人間社会」に住んでいて、それは架空のものだと分からなかった。私の育った家庭は(感謝の気持ちはもちろんあるが)矛盾と欺瞞と利己主義と少しの愛から出来ていたし、かなり心の拠りどころにしていた母校も実際はそんなに素敵なところじゃなかった。「リベラルな校風の母校」も「愛されて育った自分」も実際には存在していないと、最近やっと見えて来たのだ。

同時に小説や映画に出てくる「ひどい人間たち」は特殊な悪い人間なのではなく、それが人間なのだと。いい所もあるけれど、実際のところはみんな欠点だらけの利己主義な人たちで、ヒューマニズムや愛が発現するのは稀なことなのだと分かってきた。

『クララとお日さま』。この本に出てくるクララを取り巻く人間たちも、あまり素敵じゃない。

クララは人工知能を搭載したロボット(AF)の少女で、病弱なジョジーのために買われた。裕福な家庭では、子どもの遊び相手としてロボットを買い与えるのだ。とうぜんロボットだから性能に違いがあり、B3が最新式でクララは型落ちのB2である。ジョジーはクララを気に入り、型落ちを承知で選んだのだ。しかしロボットには個性があり、クララは観察力に非常に優れている。ジョジーをよく見て、一体化しようとさえしているようだ。またお日さまを恋う気持ちも他のロボットより強い。ロボットの動力は太陽エネルギーで、クララもお日さまの光を浴びることを心と体の糧としていた。

クララはほんとうに可愛くて、自分の仕事(ジョジーの傍にいて支えること)に熱心であり、いじらしいほど「自分が作られた目的」に忠実であろうとしている。

ジョジーは「向上処置」を受けた子どもで、いわばエリート予備軍だ。近所に住む仲良しのリックとは違うエリートコースが彼女を待っている。病弱で神経質な彼女の友人になるAFとして、クララは選ばれた。リックもクララもジョジーが選んだ友人だが、共に過ごせる時間は短い。

AFを持つ子どもはたくさんいるが、その関係性はさまざまだ。仲良く出来ず、嫌われているAFもいる。

ジョジーと同じように「向上処置」を受けた子どもたちとの交流会で、ひとりの男の子がクララに乱暴しようとする。ロボットなのだから大丈夫だと言ってクララをほおり投げようとするのだ。クララをかばってくれたのはリックだけだった。

ここで「向上処置」って、何よ? と思ってしまう。たぶん知力の向上なのだろうが、この「交流会」に集まった子どもたち、最低だと思う。悪い意味で人間らしい子どもたち。何が「向上」なのか。犬の方が上等だと思えるタイプの人間だ。

でもクララは何ひとつ反抗しない。AFはそういうふうに作られているのだ。でもかばってくれたリックに感謝する気持ちは持っている。状況を理解していないわけではないのだ。ただ自分のために戦うなんてことは(性能上)できないし、傍観していたジョジーに対する忠実さも変わることはない。

私にとってはこの後が辛いのだが、どんなにがんばってもクララは人間の友達ではなくロボットであり、生き物ではない。ジョジーが大学へ行くことになりその準備が進むうち、クララはジョジーの部屋を出て物置で暮らし始める。ジョジーはクララを見に来て、クララがお日さまを見れるように台を置いてあげた。ジョジーはクララをだいじに思ってはいるが、結局最後クララは廃品置き場に送られて過去の記憶を反芻することになる。ジョジーが大学へ行ってしまったとき、クララの役目は終わったのだ。「あなたはすばらしい友人だったわ」とクララは言う。

クララは自分のそういう運命を淡々と受け入れている。自分は成功したし、満足していると思う。クララはもう動かない。独りぼっちで佇むクララに、ただお日さまだけがさんさんと降り注ぐ。

正直、AFをどうとらえていいのかわからない。読後感として「これから私はお日さまと水だけで生きていこうか」という考えがちらっと頭をよぎった。光合成生活。きっと体重も減るに違いない。

でもとにかく、この物語を読み解く鍵は「お日さま」だと思う。

お日さまだけを燃料に淡々と奉仕するクララはまったく見返りを求めない。見返りを求めない存在は最後には捨てられるけれど、機能も徐々に失われてしまうけれど、まっとうした人生の記憶は成功と満足だ。クララはお日さまの光があれば寂しくない。なぜならクララそのものがお日さまだから。

本の帯に「カズオ・イシグロが創ったもっとも美しい子供だ」とあった。究極の美しさだ。しんとさみしく切ない美しさだ。

でも、あくまでも俗人の私は、その美しさを拒否したくなる。まったく文学的ではない感想だけれど、クララを捨てたジョジーは自分の子ども時代を捨てたのだと思う。(だって、動かなくなってもまだ意識はあるんだよ! )

私はこの小説を書いたカズオ・イシグロという人にとても興味がある。会いに行きたいくらいだ。他の作品も読んでみたい。