トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

遠藤周作『深い河』講談社

インドツアーの一行4人にまつわる物語。その中の一人美津子とその学生時代の友人大津が芯となって語られる。

癌で妻を失った磯部は、献身的だった妻を顧みなかったという後悔から、妻の最後の望み「転生して再び磯部に巡り合いたい。必ず探してほしい」を叶えるためにインドへやってきた。

時代だなと思うのは、仕事が人生の中心であり妻は家事をこなしてくれる存在でしかないという磯部の態度。それにもかかわらず磯部を愛し続け、死後もなお磯部と再会したいと願う妻の思いだ。末期がんだということを妻に隠し続ける磯部、などだ。

この夫婦の在り方は私には欺瞞にしか思えない。私たちのようにジタバタしてないだけよそ眼には平和だが、最後まで向き合うことのなかった夫婦だと思う。妻は自分の余命を悟っているのだが、磯部はかたくなにそれを否定する。人生の最後に至っても大事なことを率直に話し合おうとしない二人。妻の磯部への愛もよく分からない。心の底では愛し合っていたのだということは理解できるが、しっくりこないのだ。でも、愛にはいろいろな形があるのだと思う。今、「愛」を変換しようとしたら「i」と出た。私にとっては磯部夫婦の愛は「i」という感じなのだ。

磯部の妻が願った「転生」の意味は後になってわかる。

磯部の妻のケアをしてくれたボランティアの成瀬美津子と磯部は、インドツアーの説明会で再会する。

美津子は美貌と財力に恵まれているが、学生時代から、「生活より人生」の方を望むという自分の性格から来る苦しみを背負って生きている。善良で働き者で裕福な男と結婚しても、この自分はほんとうの自分ではないというズレ感が消えない。新婚旅行で行ったパリで、美術館巡りに飽いてしまった夫と行動を別にし、学生時代の友人大津を訪ねる。

学生時代に美津子は友人にけしかけられて大津の心を弄んだ過去がある。さえないまじめな学生であった大津は修道士の見習いとなり、リヨンにいた。

美津子が久しぶりに会った大津は、修道会にもなじめず、中途半端な気持ちでいた。ただ大津にとって確かなことは自分が神を捨てられないということだけだった。どんくさい大津に対して、美津子はまたもや残酷な気分になるのだった。

その後美津子は離婚して、事業をやりつつ病院でボランティアをしているときに磯部の妻のケアをすることになった。

この美津子、アタシは大嫌いだ。善良さのかけらもない。何のメリットもないのに大津を傷つけ、死期の近い磯部の妻にまで残酷な言葉を投げつけた。奔放に男たちと性関係を持つ女でもある。何が楽しくてそこまでやるのか分からない。悪への衝動とでもいうのだろうか。暗いものに突き動かされる性質だ。傷つけた者への痛みは感じないで、ただわずかな不快感を覚えるらしい。

これ、美人で財力と教養があるから大きな顔をして生きていられるが、弱い人間だったら嫌われ者でしかなかっただろう。彼女が生活をバカにし、人生を生きたいと願うのも笑止だ。彼女は苦しんでいるつもりだろうが、その代償を払っているのは常に彼女より弱い立場にある他人だ。外面が立派なだけにたちが悪い。

美津子はインドの修道会にいるという大津に会いたいと心のどこかで思っていた。ガンジスのほとりの街ヴァーラーナスィで、美津子は大津を探し当てる。

再会した大津は、修道会を追い出され、不可触民たちと共に行き倒れの人間をガンジス川へと運んでやる毎日を過ごしていた。貧しく生きて老い、人間らしさのかけらもないように見える瀕死の人々にとっての救いは聖なるガンジスにたどり着いて死ぬことだった。大津はなんの見返りもなく彼らの望みを叶えてやる。

美津子には大津がまったく理解できないが、どうしようもなく大津の生き方に引かれていた。自分とまったく関係のない者として忘れ去ることができなかったのだ。

筋を追う小説ではないので書いてしまうが、最後に大津は軽薄なカメラマンの命を助けるために怒り狂う暴徒たちに乱暴されて首の骨を折り危篤になる。カメラマンは自分が大津に助けられたことに気づきさえしない。それがこの物語の終焉である。

彼は醜く、威厳もない。みじめで、みすぼらしい。

人は彼を蔑み、見すてた。

忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られる。

まことに彼は我々の病を負い我々の悲しみを担った

大津は彼の「玉ねぎ」(神、キリストを象徴することば)であるキリストのまねびを生きようとしたのだった。

至る所で血が流され、憎しみがたぎり、戦いのあるこの世界で、「大津の信じる玉ねぎ(キリスト)の愛など無力でみじめだった。玉ねぎが今、生きていたとして、この憎しみの世界には何の役にもたたない、と美津子は思う。」

「滑稽な大津、滑稽な玉ねぎ。美津子は火葬場のあたりに動く白衣の人たちのなかに大津の姿を探す。あの男を馬鹿にしつづけながら、なぜ関心を持ち、それを求めるのだろう。」

この『深い河』に描かれている作者の信仰に対する考え方は私の心に残るものだ。美津子が大津を切り捨てられないように、私もまた作者の玉ねぎを無視できない。

大津はキリストのまねびを生きようとした。キリストは大津の中に転生したのだ。

夫に無償の愛を注ぎ続けた磯部の妻、生前磯部に顧みられることのなかった妻も、磯部の心の中に転生したのだと思う。「私を見つけてください」という妻の願いはかなえられたのだ。

そして大津も、たぶん美津子の中に転生することを得たのではないか。そのことについては何も書かれていないが、私はそう感じる。

他人を思いやらない、自分自身の衝動に駆られて行き当たりばったりに人生を歩む美津子が大津に関心を持ち続け、彼を路傍の人として忘れ去ることができない。美津子のような人間がそうなるところにこそ、大津が生きた意味があるのだ。大津はひとりを「釣り上げた」のだ。