トマト丸 北へ!

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マン『トニオ・クレーガー』浅井晶子訳 光文社古典新訳文庫

この小説を知ったのは、北杜夫さんの青春の書としてだった。そのとき「トニオ・クレーゲル」となっていたので、クレーガーとあるのがどうもしっくり来ない。翻訳だとどうしてもこういうことになる。『赤毛のアン』も、私のアンは昔の村岡花子さんの訳であって、何度も読み込んだこの作品を別の訳で読むとどうにも違和感から逃れられない。

とは言え、みずみずしく美しい作品であることに変わりはない。「どうして僕はこんなに変わっていて、周りと衝突ばかりするんだろう」というトニオ少年の苦悩は、多かれ少なかれ青春の気を帯びている人間の共感を呼ぶものだ。

「トニオの仕事への取り組み方は、生きるために仕事をする人間のそれではなくて、仕事をする以外には何も望まない人間のそれだった」

「芸術家であるという宿命と業を背負わされた人間」

彼は「青い目の、精神なんか必要としない人たち」にあこがれる。それでいて彼は「人間としての充実した人生を芸術のために諦める覚悟」を固めている。あえて「世界と調和できないという感覚」をみずから選び取っているのだ。

私は逆で、むしろトニオ的存在にあこがれる。これは生まれつきのものであり、トニオが青い目になれないのと同じように私もトニオにはなれない。いくらあこがれても努力してなれるものではないのだ。私とトニオは永遠に対岸にある。(もちろん金髪碧眼のインゲでもないが)

そして、なんでもありの現代では、トニオは存在できないかも知れない。現代社会は異端が異端であることを認めない。どんな異種の人間もよってたかって解釈し、「理解」してしまうのだ。そういう意味でも『トニオ・クレーゲル』は永遠のあこがれの書なのだろう。