泉鏡花の戯曲。
「夜叉が池」
人里離れた山中で寄り添うように暮らす百合と晃。寺はとうの昔に焼失しているが今も残っている鐘楼があり、その鐘を朝夕晩の三度つくことをなりわいとしている。それは村を水害から守る竜神との約束のためだった。鐘をつかないと大洪水になるのだが、村人たちはもうそれを信じていない。晃は不信心な村人たちのためにではなく、ただ美しく可憐な百合ひとりのために山中に留まって鐘をつき続けるのだった。
「ぼくはもう物語そのものになったんだ」
前途有望な生活を捨てて、晃は愛のために生きることにしたのだ。
「で、君はそれを信ずるのかい」
晃の学友だった学円が訪れた。学円は始めは驚くもののじっくりと聞くうちに晃の話に納得する。帰る前に夜叉が池を見たいという学円と連れ立って、晃は家を出た。
その留守の間に訪れたのは百合の叔父宅膳をはじめとする村人たち。かれらは百合に日照りの害から逃れるための生贄になれと言う。鐘をついて竜神をなだめることは信じないくせに弱いものを贄にすることはためらわないのだ。
それは女の着物を剥ぎ取って牛の背に乗せて引きまわすという酷い仕打ちだった。百合は抗うが、無理やり牛に乗せられた。
そこへ胸騒ぎを感じて引き返してきた晃と学円。しかし村人たちは晃の懇願も学円の説得も聞き入れない。無知と迷信と美しい女人をいたぶる行為への興奮で、理性を失っているのだ。
三人は鐘楼の上に追い詰められた。
晃は無関係な学円にその場を逃れるように言い、ひとりで村人たちに立ち向かおうとする。しかし百合は自ら鎌で胸先を切り裂いた。
「皆さん、私が死にます。言い分はござんすまい」
おりしも鐘を衝く時刻が迫っていたが、これを見た晃は学円に「僕はこの鐘をつくまいと思う」。「うむ、打つな」と学円も賛成した。百合を自刃に追いやった非道な村人たちに、二人も怒りをつのらせていたのだ。
晃が鎌を振り上げて切り、鐘をつく撞木が落ちた。
とたんに起こる山鳴り、暗雲。恐れおののく村人たち。
「助けてくだされ、鐘をついてくだされのう」
しかしすでに遅く、大波が押し寄せてくる。
晃も自刃した。
夜叉が池の竜神白雪はこれでもうこの地を離れられると喜ぶ。剣が峰の神と恋仲で、洪水を起こさないために久しい間会いに行くのを我慢していたのだ。
巨大な鐘は水没し、村人たちは魚に姿を変えて泳ぎ始めた。晃と百合は(たぶん神となって)白雪の傍で永遠の命を得る。にっこりと微笑む二人を月の光が照らす。後には鐘楼に佇む学円だけが取り残された。
この話、めっちゃ好きなのでえんえん筋を書いてしまった。
村人たちのエゴイズム、残忍さに「共同体」の怖さ、醜さを感じる。「村のため」を言い立てて弱い人間を犠牲にしようとするのだ。
反対に美しく純な存在の百合ひとりのために晃は前途を捨てて鐘守りとなり、白雪姫も剣が峰の神との恋をいったんは諦めようとするのだ。ほんとうに価値のあるのはどちらか、ということである。
そんなこんなもあるが、なによりこの戯曲から想像する舞台をとても美しいものに感じる。上演されたのを観ていないが、ぜひ一度観たい。と思っていたら、坂東玉三郎主演で映画になっているのを見つけた。次の週末にゆっくりと楽しむつもり。
「天守物語」もいい。
最初の場面、召使たちが玉色の絹糸で秋草を釣るところからぐいぐい魅かれていく。
城主夫人の「鷹には鷹の世界がある。決して人間のものではありません」というセリフが気高くやさしい。
この怪しの世界はすべてのものが魂を持つアニミズムの世界だ。
解説にあったことだが、鏡花の物語は、人間の俗世間と対立する選ばれた人間、そして妖怪の物語だ。それは命を軽んじる傲慢で理不尽な世界とすべての命をたいせつにする美しい世界の対立だ。
みにくい俗世間から抜け出して選ばれた善き人となるためには妖怪の力を借りる必要がある。妖怪は美しい女性の姿をしているトリックスターだ。
鏡花のこの世界観にすごく魅かれる。