トマト丸 北へ!

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山崎ナオコーラ『かわいい夫』 夏葉社

山崎ナオコーラ柳美里との出会いは私の「2021年の出会い」ベストテンに入る。

その山崎ナオコーラ著で装画が(あの懐かしい)みつはしちかこ というエッセイ集。

この作家は読者との距離の取り方が絶妙だ。ポーズが素敵、と言ってもいいかもしれない。文体が快いということかもしれない。

「 私の夫はかわいい。

  顔がかわいいのではなく、存在がかわいい。ざしきわらしのようだ。

  それで、エッセイを書くことにした。」

いいな、「存在がかわいい」なんて。「ざしきわらし」も好き。

実を言うと私は人生でそういう存在を目指していた。ただ、なり切れてなかったのか、そんな私を「かわいい」と言って可愛がってくれる人がいなかった。

ざしきわらし」的生き方は人間として最高だと思うのだが、そのように存在することはけっこう難しい。私には無理だった。認められようとして媚びて、こけた。他人に認められようと媚びたら、もう妖怪ではない。

ナオコーラさんの夫は、すごい人だと思う。自然体の、ざしきわらし

そしてその後に、「ここまで読んで、いらいらした方がいらっしゃるかもしれない。『夫自慢が始まるのか』『幸せ自慢か」と。しかし、それは杞憂だ。夫の収入は世間一般に比べるとかなり低い。そして、私の容姿は悪い。私の書くものが自慢話と読まれることはまずないだろう。独身の方にも、安心して読んでいただきたい。」

ここが、私の思う「絶妙な距離の取り方」のゆえんだ。それは、ユーモアと言ってもいいかもしれない。とにかくこの文体は私をラクにしてくれ、ほっとさせてくれるのである。

誤解されたくないのだが、彼女たちが大したことないとか思って安心するのとは違う。こういうものの言い方が好きなのだ。「独身の方にも、安心して読んでいただきたい」のくだりが特に。

ジェンダー的に問題があるかもしれないが、女の人でこういう言い方ができる人は少ない。自慢でも卑下でもないフラットなことば。距離の取り方がうまい、としかいいようがない。

実は「自慢」かもしれないのだけれど、マウントを取ろうとはしていないということなのかもしれない。

「夫の良さは『勝ち負けのない世界を作れる』というものかもしれない。」

仕事について、夫には家族のためではなく「社会や自分のためにやってもらいたい。」

三高の夫を得ることを「勝ち組」と称する人や青山などに住むことをステイタスと誇る人とは違うのである。

勉強好きで資格を取るのが好きなお父さんについて、「学歴コンプレックスのせいか」と思っていたが、「本当に勉強が好きで、自分の誇りのためだけにしていたのだ。」と気づくくだりもいい。

「『この世界を一緒に作っている人』というだけで関わればいいのかも。」

こういう文章を読むと、この人とこの人の考え方がほんとに好きだなと思う。

いちばん心に残るのは、P238「指輪は布」の項。

ナオコーラさんの結婚指輪は布でできている。付属の小さな封筒に「結婚してください」という直筆の手紙が入っているものだ。

すてき。何百万もする指輪でないと文句を言って夫になる人を泣かせたタレントの人がいたけれど、ある程度値の張るものが欲しいと思うのが一般だろう。指輪の値段を自分の価値のように思ったりもするのだろう。そういう価値観とは真逆の価値観だ。

ナオコーラさんが言っているように、それは一種の革命で、危険視したり反感を持たれる可能性もあることだ。

たとえば私は「夫の職業」を自慢している人を見ると内心吹いてしまう。棲んでいる場所、給料、地位、などなど。他人が自分のよすがとしてだいじにしているものを笑ってはいけないから、つとめて感心したふりをするが、ほんとはどうでもいいと思っている。「こんなことが自慢になるのか!」と驚いているのだ。感心したふりをしないと危険だから今ではかなり上手に感心したふりができるようになった。とは言え、では自分は何がだいじかと言うと、実ははっきりしない。

ナオコーラさんは自然体で自分の価値観を具現できている人だ。そこがほんとにすてき。

「私は社会を信じている。

 せっかく成熟した社会に生きているのだから、何百年か前のように家族しか信用できなかったり、親戚同士でしか助け合えなかったりするのではなく、もっと社会の仕組みを信用して良いのではないか。

 今の時代では、決して『力を持った人と家族になりたい』なんて思うことなく、純粋に一緒に暮らしたい人と暮らし、助け合いは社会とすれば良いのではないか。」

すごく共感する。これは「おひとり様」の生き方でもある。今はひとりでも大丈夫な時代だと思う。誰か特定の人と緊密な力強い関係を築かなくても、生きていける。昔は有力者からにらまれたり村八分にされたりすると、もう生きていけなかった。村の掟を破ると追い出された。今はそうではない。もっと大きなゆるいつながりの中で生きていける。この時代で良かったと思っている。漠然と思っていたそういう考えを楽しくさりげなく(ここがだいじ!)裏付けてくれる、そんな本だ。