トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

柳美里『JR上野駅公園口』 河出文庫

 後書きがすごく参考になった。天皇制とホームレスの対比にまで私は考えが及ばなかった。

P55 光は照らすのではない。照らすものを見つけるだけだ。そして、自分が光に見つけられることはない。ずっと、暗闇のままだ。

 ホームレスになっている人には東北から出稼ぎに来た労働者が多いと言う。都会で働き、必死に仕送りをしているうちに、いつの間にか帰る場所を失ってしまった人々が。

 主人公は、何一つ悪いことをしていない。

 必死に家族のために働き続けた人生、ただ、不運だった。無口で、これと言った技能を身に付ける機会もなかった。それでも出来ることを精一杯がんばった。彼の律義さに胸が苦しくなる。最後にみずから故郷を捨てたのも、祖父のめんどうをみると決めている孫娘を自分の犠牲にしてはいけないという愛情からだった。「探さないでください」という手紙を残して彼は旅立つ。

 そうしてたどり着いた上野公園では、「特別清掃」という名のもとにホームレスが一定期間追い立てられ、戻ったときには住める範囲がどんどん狭まっていく。その「特別清掃」は、天皇など高貴な人々の行幸のためだ。

 「オリンピック」も、彼らを追い立てる要素であった。行幸や「オリンピック」などの晴れの行事が彼らの生存を脅かす。

「でも、戻ったとして、何の不都合になるのか?

 自分は悪いことはしていない。ただの一度だって他人様に後ろ指を差されるようなことはしていない。ただ、慣れることができなかっただけだ。どんな仕事にだって慣れることができたが、人生にだけは慣れることができなかった。人生の苦しみにも、悲しみにも……喜びにも…… 」

 これは初めて彼が社会に対して抱いた疑問のようなものだと思う。自分たちが公園にいることで「何の不都合になるのか?」。抗議と言うにはあまりにも弱い、不明確な、かすかな疑問。

 その後彼は自死を選んだ。

 この小説は社会の構造が生んだホームレスの一男性を描くことによってその不条理を描いている。その頂点にあるものとして天皇制が名指されている。ホームレスの男性はこの社会の影の象徴であり、天皇制は光の象徴だ。「天皇制」について初めて考えたのだが、私は、この社会の細かい所にまでこの構造が行きわたっていて、それぞれの場所に無数のホームレス、無数の天皇制が存在するのだと思う。

 狭いコミュニティの中での「天皇」的存在を、かつて本田勝一は「きつねうどん大王」と呼んだ。昼食にきつねうどんを食ってても、その小さな組織の中では王様なのだ。どんな小さな組織の中でも封建性が機能している。どこかの町会長も、きつねうどん大王だ。

 私が言う「封建性」は、たいへんに素朴な解釈で申し訳ないが、「抗議できない」という点に尽きる。何かひどいことをされて抗議するとき、下の者の言うことはけっして受け付けられない。長い者には巻かれるという対応が賢くて、抗議したりすると手ひどくやり返されたり、ひどいときは村八分にされたりするのだ。

 もちろん良い「きつねうどん大王」もいる。自分に何か権限が与えられたとき、その権限の範囲で出来るだけ他人に良くしてあげようとする人たちだ。そういう人たちは確実に存在するし、彼らで世の中は回ってのいるのではないかと思う。しかし共同体によってはしばしば権力を振りかざす人の温床になってしまいがちだ。運悪くそういう大王の犠牲者になった人は、なぜか自分が悪いような気になり、抗議などできない。心のどこかで「かすかな疑問」を抱くことはあるが、それが具体化することはない。

 それが「地域共同体」の本質だ。「地域コミュニティ」と明るく表現されたとしても、その息苦しさは変わらない。モラハラパワハラ、セクハラの温床だ。日本の社会全体が大きな「地域共同体」だとも言える。

 この物語の結末は、死ぬことによってしか日本の国全体を覆いつくす天皇制の呪縛から解放されないということを暗示している。(「解説」からの受け売り)

 この現代日本での「天皇制」の意味するものは私にはよく分からないのだが、この小説から見る限り、日本の社会の地域共同体的構造のことだと思う。主人公がそこから出て行く決意をしたとき、同時に自死を選ぶ道へ足を踏み出すしかなかったということなのだと思う。日本という共同体には、そういう側面があるということなのだろう。

 かなり重い問題を提示している小説だと感じ、私の感想も背伸びしたものになった。(精一杯がんばってこれです。)これ以上語る能力はない。

 そこから弱い人間をはじき出し、はじき出した人間に生きる場所を与えない社会。

 地域共同体の中では生きられず、逃げ出した点では私も主人公と同じだ。しかし逃げきれてはいない。

 その構造を見通して生きることができれば、私も(そしてきつねうどん大王も)自由になれるのではないか。そんなことを考えた。