トマト丸 北へ!

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「あきらめる」の考察

山崎ナオコーラさんが「あきらめる」という言葉が好きだと書いておられた。

私はあきらめるのが嫌いだ。変に意地っ張りなところがある。損切ができない。

ナオコーラさんはなぜ「あきらめれる」という言葉が好きなのかなと考えて、私なりに納得したのでそれを書いておこうと思う。

「あきらめる」というのは「あきらかにする」という意味だとどこかに書かれていた気がする。あきらかにするとは、その物事をよく理解する、成り立ちや性質をはっきりさせるということだと思う。

芸術家や芸人やタレントになりたい若者たちを親は止める。とうてい生き残れない、やっていけないからと。実際、親の反対を押し切ってその道に進んでも芽が出ず、挫折する人が多いと思う。才能と運に恵まれたほんの一握りの人が成功する。その道で食べていくというだけでも、ハードルは相当高いだろう。

若い貴重な時代を成功の可能性が低いことに浪費するより平凡でも堅実に歩んでほしいというのが親心だろう。

でもそれって、時間の浪費なのかなと思う。

財政的に豊かな暮らしをするということが人生の目標なら、自分に向いたことを見つけて効率的に稼ぐほうがいいのだろう。でも、それと幸せは違う。

大多数の人が途中で自分はだめだとわかって「あきらめる」。その時期は人それぞれだ。でも、その「あきらめ」は挫折なのか。

「あきらめる」時は、その仕事がどういうものか身をもって体験して「分かった」時であり、自分がどういう人間なのかが自然に「わかって」きた時なのだと思う。その時人は、挫折したのではなくて、「これは自分には不要なものだ」と理解したのだと思う。

これ以上貴重な体験があるだろうか。

「始めから分かり切ってる」「もっと早く分かれよ」と他人は思うかもしれないが、その人にとってはその体験が必要だったのだ。その時間が、どうしても必要だったのだ。

だから一見うまく行きそうにないことでも「わかる」まで、「あきらめる」までやりたいだけやるのがいいのだと思う。

人との付き合いも、男であれ女であれ好きになって付き合って、あるとき別離がくることがある。それはふったふられた縁を切られたではなく、お互いに必要な存在ではないと「わかった」のではないだろうか。つまり、あきらめたということ。

実際の付き合いはそんなに割り切れるものでもないのかもしれないが、私はそういうことだという気がしている。あきらめたら、次へ行く。

何かを始めてうまく行かず、もうやめようと思うのは、それが自分には必要の無いことだと「わかった」から。それが「あきらめる」。あきらめたら、次へ、ってこと。

仕事で言うと、価値観の問題だけれど安定した収入を得て「勝ち組」になることは幸せにはつながらないのではないか。

自分の好きなことにトライできる、今はそういういい時代だと思う。時間の大部分を生きるための仕事に使わなくても生きては行ける、日本に住んでいて幸せだ。

私は今外では働いていない。書くことが好きだけれど、それで収入を得ることはない。才能はたぶん(明らかに)ない。でもいろいろ書きたい。自分なりに少しずつでも努力するのが楽しい。

コンビニで働いている知人がいる。私がしょうもないことを書いている時間に彼女は着実に貯金を殖やしている。服やアクセサリーや、好きな物を買ってもいる。私は彼女よりずっと貯金は少ないだろうし、服装も質素だ。でも、(彼女はコンビニで働いたり地域活動をするのが好きだからそれが幸せだけれど)私は、自分の時間の使い方が気に入っている。

書いていると自分の力や才能がわかる。ほかの人のうまさやすごさもわかる。でも自分なりにやって行こう、そう思う。それが「明らめる」だと思う。で、いよいよ自分には「書くこと」なんて必要なかったとわかるときが来たらあきらめる。そのとき「次へ行く」時間が残されているかわからないが。

ナオコーラさんの「あきらめる」がどんなことか詳しく書かれていなかったので違っているかもしれないが、「あきらめる」について私はこんなことを考えた。