「生き物を飼うことは『祈り』に似ている」という帯の文に惹かれて買った本。
解説の岡ノ谷教授は「飼うことは自分を見つめることである」と書かれている。
寝る前に読む本がなくて一回読んで積んであったのを手に取って見ているうちに、ふと思ったのは、実用でなくペットとして生き物を飼うとき、人は自分自身を外在化して飼っているのではないかということ。
飼っている生き物は自分の魂の一部なのだろう。自分自身の一部を取り出して生物の形で傍らに置くものだ。
その生き物とのかかわり方は、だから自分自身とのかかわり方を表している。名前をつけるかどうか、可愛がるかどうか、めんどうの見方、接し方は人が自分をどう扱っているかを示しているのかも。
第一の物語の「わたし」がイボタガの幼虫を飼い始めたとき、彼女はイボタガに自分を見ていた。だから夫がそれをトイレに流してしまったのではないかと疑ったとき、彼女は夫の自分へのかかわり方を信頼していなかったのだ。
イボタガが家のどこかに生きていて成虫になれたらと、彼女は祈っていた。もしそうだったら夫を許そうと。
結局彼女は家を出る。彼女が夫を捨てたのではなく、夫に遺棄されたように感じていたからだ。
また、飼っている生き物が自分の代わりに死んでくれることもあると思う。
イボタガ、ウーパールーパー、イエアメガエル、ツマグロヒョウモン。この4つの飼いものの物語はありきたりな「心温まる」ペットの話ではない。だがそこには魂の祈りと再生が描かれているように思う。
自分のことを考えると、犬をかわいがっているのは、ほんとうは自分がそうされたいことを犬にしているのかもしれない。話しかけ、撫でさすり、いっぱい誉めてもらいたい私が、犬の形になって傍に居るのかも。
子どものころ飼っていたジュウシマツを不注意で死なせてしまった。そのとき子どもの私の魂の一部も死んでいたのかもしれない。そのころから現実と自分との間に薄い膜のようなものが介在しているように感じていた。小学生なのに、もう何千年も生きているような疲れ切った気分になることがあった。
小鳥の死は私への警告であったのかもしれない。死にたくないという自分の悲鳴であったのかもしれない。
「生き物を飼うことは『祈り』に似ている」。