トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

小野不由美『風の海、迷宮の岸』 十二国記 新潮文庫

魔性の子』の高里の幼少期。

高里要を憎む狭量で高圧的な祖母は理不尽な躾を繰り返していた。要をかばう母は祖母に叱責され、いつも泣くのだった。父はもとより子どもの心情を理解するような人物ではなかった。

ある夕暮れ、要はいたずらを正直に白状しないと責められ雪のちらつく中庭に出された。寒さに凍える子どもは建物と建物の間の隙間から白い手が自分を差し招いているのに気づく。そこからは温かい空気が流れてきていた。子どもはその手の招く方へと近づいて行き、そのまま異世界へ運ばれていった。

要はもともとその異世界に生を受けた、人にあらざる高貴な生き物だったのだ。

ほとんどの人は少年少女の時代に、自分はこの家の子じゃないんじゃないだろうかと疑ったりすると思う。親や家族への違和感。それがほんとだったという話だ。

要は自分の運命を受け入れつつも望郷の念に駆られる。どんなにやさしくされても癒されない孤独を、彼は抱えているのだった。

この話のあらすじを書いても始まらないと思うので、感想めいた思いをひとつ。

「間違ったこと」をしなければ人生はうまく行くと思う。欲が働いて頭で損得を勘定した末の行動は自分にとってほんとうは良くない場合が多い。逆に、損か得かはわからないが、自分はこうするしかないと心が訴えている行動は正解なのではないだろうか。それは感情の赴くままにとか欲望に駆られてというのとは違う。自分にはこれしかない、別のことをしたのでは生きているとは言えない、ということがあると思うのだ。

自分の「ほんとうの気持ち」に気づくことがたいせつだと思う。

なんとなく良くない予感がしているのに、世間はこうだからとか目先の利益とかに惹かれて選んでしまった道は後悔へと続く。逆にたとえ世間的には損をしても最終的に自分が満足し幸福感を感じられる道もある。

麒麟が王を直感で選ぶという下りを読んで、そんなことを思った。読んでいない人にはぜんぜんわからないと思いますが。