トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

吉本ばなな『ハネムーン』 中公文庫

P7 私はそこを大切に思い、子供の時は服のままで地面にすわったり寝転んだりしていた。やがて大人になってからは、きちんと敷物を敷いて飲み物を持って、ひまさえあれば坐っていた。

 もう、これだけでこの小説が好きになる。こういう場所があったら、もうそれだけで幸せだ。ただそこにいるだけで満たされる場所。

 子どものころ私にもこういう場所があったっけ。家の裏山だった。石段を上がって、山肌をえぐったような雨の日には濁流が流れる道を登ると一メートルくらいの円形の平らな場所があって、その真ん中に大きなニセアカシアの木があった。白い花が垂れ下がってたわわに咲く春には甘い香りがそこら中に満ちた。

 幼い私はいつもひとりで山を登り、いつも歌っていた気がする。膝小僧はすりむけ、手はかさかさに乾いていた。そんな子だったのに。

 人には、大人になってもこういう場所が必要だと思う。そのことを思い出させてくれる物語だ。

 もうひとつ、オリーブという名の犬がいる。

P161 犬は、愛した分を必ず返してくれる。子供の頃初めてオリーブだけが僕が生きていることを全身全霊で肯定してくれた。それが、どんな時も生きていく力になった。オリーブは、死ぬまで、死んでからも僕がこの世にいることが悪いことではないと示してくれている。

 犬って、ほんとうに高貴なくらい人を見ない。その人が発するエネルギーだけを見ている。権力者であろうが金持ちだろうが美人だろうがブスだろうが、ぜんぜんとんちゃくしない。発しているエネルギーが穏やかで温かいものであれば、一切へだてなくなついてきてくれる。犬が自分の大好きな人に相対するとき、その肯定力たるや半端ない。

 庭があり、オリーブに守られて二人の恋は育った。それは、他人に自慢するものだったり努力したことへのごほうびのようなものではなく、ただお互いに許容し、受け入れる日々の積み重ねから生まれたものだ。まがまがしい宗教の影に怯えつつも二人はしっかりと自分たちの道をたどる。

P160 もしかしたら、私たちが育ててきたものは思っていたよりも偉大なものだったのかもしれないと思った。 ~中略~ ちょっとしたことを寝る前に話し合えたり、たいていの欠点をなあなあではありながらも、愛情をもって許し合える人がいたことで、私と裕志には自分以外のものになろうという憧れのようなものが一度も芽生えなかった。

 「自分以外のものになろうとする」ことほど人を毒することはないと思う。他人に誇る財力や権力、才能、業績などなくても自分自身であるだけで十分なのに、人は「何者か」になり「他人にそれを認めさせ」たいと願う。誰かを自分に跪かせたい。

 『星の王子様』に出てくるいばりのや男のように、「俺に感心してくれよ」「手をたたいてくれよ」と求める。王子さまがパチパチと手を叩いてあげると、帽子を脱いでお辞儀をする。何度でも、繰り返したいのだ。王子さまはあきれて立ち去る。この男みたいな人、いる。

 私の友達のひとりもそうだった。すごいと認めてほしくて、でもほんとはすごくないと分かってるから不安で悲しかった。自分は特別だと思い込むために、ただそれだけのために彼女は狂気の世界へのめり込んで行ってしまった。変な霊能者のような人に前世は高貴な人物だったと告げられてそれを心の支えにしてしまった。止められなかった。聞き入れない。王女でなくても、ただそのままの彼女で十分だったのに。みんな、そのままの彼女が大好きだったのに。

 思い出でも犬でも、人間でも、傍に居てその存在を許し合える相手が、人には必要なのだ。でもそういう関係を育てていくことは綱渡りのようにむつかしい。目先の欲得で「間違ったこと」を言ったりしたりしてしまうと、関係はもろくも崩れる。この物語の恋はただ平凡なやさしいかわいい恋だけれど、それが育つのは奇跡みたいなものなのだ。犬だってエネルギーの質が気に入らないと傍に寄っては来ない。

 筋をたどる本ではない。ひとつひとつ味わう。場面が心に沁みてくる。一緒に心の中を旅して観るもの聴くものを味わう。ばなさんの本はそんな本だ。