『自分の意見で生きていこう』 ちきりん ダイヤモンド社
3つのきづき
①人生における大切な問題にはどれも唯一の正しい解答などない
この不条理不確実な人生における正解のない大事な問題について自分の意見を明確にできなければ、自分のオリジナルの人生を作っていくことができない。
ここのところで私は考え違いをしていたと思う。「正しい解答などない」という点まではちきりんと同じ考えだった。絶対ということなどないと思った。その先を間違えてた。「言い切る」ことを恐れ、あらゆる問題についてニュートラルであろうとし、あらゆる問題を先送りにしてしまったのだ。正解の無い世界で唯一の正しい答えは「解答しないこと」だと思ってしまった。間違わないためには回答しないこと、何もしないことだと。
こんな腰の引けた人生がひとつの実りももたらさなかったのは言うまでもない。間違うことが怖いから何もしないというのでは。行動を迫られて追い詰められるまで何もせず、ぎりぎりになってから世の風潮に流されるというのが私の人生だった。結果が出ることが怖くて行動できなかった。
また、そういう環境でもあった。何かをすることよりも我慢することの方が正しいと言われて育ってきたのだ。もちろん、こうまで不甲斐ない生き方を他人のせいにすることはできないけれど。
こういう風にのんびりやっててうまく行く人もいるかもしれない。流れに任せてOKと言うケースも。でも私はそうではなかった。うまく行かなかった。
今思うと、うまく行かなくて良かった。遅くはなったが、否応なしに自分と向き合うことになったからだ。あちらでもこちらでも頭をぶつけたり、ぶたれたりしてきたけれど、やっと、ようやく、自分というものを見つめる気になれた。そういうときにこの本と出合った。実にタイムリーだった。
②(うまく主張できないとき)足りないのは言語能力や表現の力ではなく思考そのものである場合が多い。
<こんなときにはこう言い返そう>というような<話し方、主張の仕方>の解説を目にすることがあるが、書かれているフレーズをそのままに言い返したとしてもほとんどうまく行かない。言葉をなぞるだけではさらに言い返されるのがおちだ。
P74に「どんな意見なのかということより、それは本当に自分の意見なのか? が大切なことだ」とある。
考えた末の自分の意見だったら、それが腹から出た言葉であれば、インパクトがあるし一歩も退かないでいられるだろう。(しかし借り物の意見やただの思い付きでも強く主張する人もいるからインパクトだけでは信用できない。その場合は勢いに惑わされないで少し掘ってみることが必要だ。)
③反応と反論の違い
ここの部分、ほんとうにおもしろかった。読んで初めて気づいたことだが、「あるある」である。
反応と反論の違いは「ポジションをとっているかどうか」にある。
P197「意見なのか反応なのかを見分ける基準は、その発言により『発言者のポジション=立ち位置が明確になっているかどうか」です。
「一概には言えない」「例外もある」などともっともらしく言う人、ほんとに多い。また、残念なことにそういう人が前向きな意見をつぶしてしまう場合も多い。この本に書かれているとおりで、それがどんな意見であったとしても会話として成り立ってしまうのが「一概には言えないでしょう」などの反応だ。この下りにはちょっと笑えた。
これからの行動のヒントになったこと
⑴よく考える
あらゆる問題について、よく考えようと思う。「今現在差し迫ってはいないことについて考えることが大切」なのだとも書かれていた。はっとした。
⑵ただすなおに自分の「こう思う」を言葉にすればよい
「『個』としての自分を認めさせるためには、あなたと他の人を区別するための情報を提供すること」が必要だと書かれている。
私が今までどこのグループからも仲間として認められなかったのは、ひとつには自分の情報を他人に与えまいとしてがんばったせいもあるのかもしれない。個人的なことを聞かれるのが苦手だ。たいていの場合マイノリティである自分の意見を表明するのが怖い。ずかずかと人のプライバシーに踏み込んでくる人の言いなりになる必要はむろんないが、アルマジロのように固まってしまう私もよくなかった。
自己開示ができない理由は開示するべき自己がはっきりしないからかも。何についてもしっかりと考えてはいなかった。
意見を言うことや自己開示を恐れる気持ちの後ろには恐れがある。意見が違うのはあたりまえ、他人と自分が違うのはあたりまえなのに、違うことによって居場所を失うような気がしていた。育った家庭とか所属した集団とか、違うものは排斥するというシステムの場所にずっと居て過剰適応してしまった側面もある。
でもアルマジロになっていても結局仲間には入れず気味悪がられるだけだった気がする。ほんとうの自分を分かってくれる人も現れない。現れようがない。もし気の合う人がいたとしても互いにそれとわからないわけだから。
⑶「自分の意見の束」によって自分という人間がどのような人間かを自分で理解する
自我の確立 ➡ 肯定 ➡ 開示 ➡ 外部からも承認をもらう
この一連のステップを踏んでみようと思う。おもしろそうだ。そして私には失うものもない。自分を失ってまでしがみつかなければならない集団など無い。今の日本は外れ者でも生存できる。
私って、どんな人間か、自分で実はよくわかっていない気がする。いろいろなことに対して自分の「意見」を明らかにしていくことによって、自分という人間がわかってくるかもしれないと思うとわくわくもする。
また、ひとつひとつの事案を考え尽くすことによって行動も変わってくるかもしれないという期待もある。自分の中で確信が持てないから行動がブレてしまうのかもしれない。
P175 「まずは自分の意見を明確にすることにより、自分で自分をしっかり理解する。それがすべての始まりなのだということを忘れないでください。」
こんなふうにブログを書いているのも、無意識のうちに「自己肯定感」を得ようという願いがそうさせているのかもしれない。
ブログサービスがあってよかった。書くことがあってよかった。