トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

11月のまとめ

全般的に数字は良くないが、毎日はがんばった。

本 11冊

ビデオ 4本

ブログ 15記事

体重 1キロ増

 

改善できたこと 毎日のルーティンを、何があってもやり遂げる

        家人たち(犬と夫)の健康増進

        NHK俳句の佳作 1(久々の佳作! 岸本先生ありがとう!)

 

気づき ⑴家族の形は流動的なもの。「去る者は追わず」だし、自分も自由。

    ⑵家族を心配してしまうのは、自分が不安だから。

    ⑶食べ過ぎてしまうのは自分が不安だから。

    ⑷信念は自分を信じること、自信は明日の自分に対する信頼

 

11月は、良い気づきがあった。自分の心の不安定さが、良く分かった。ヤジロベエみたく一本足でふらふら。小さなことで大きく揺らいでしまう。他人に頼ってしまい、いっそう不安定になる。

気づけたのは、自分をよく見るようになったからだと思う。やっと自分を見る余裕ができたということなのかもしれない。

何も持たず人生の蓄積もあまりないが、何はなくとも明日の自分を信じよう。これまで粗末にしてきた自分を大切にし、メンテし、いいものを着せ、おいしい食事をしよう。好きなだけ書いて、読んで、観て、歩く。一切ブレーキをかけない。

家族が流動的であるように、この「私」という存在も、きっと一過性のものだという気がする。すべての森羅万象が一瞬もとどまることなく変化しているのに、もっとも捉えどころのない「自分」が変化しないわけがない。私が私である時間も、ほんとうは一瞬なのだ。

とうに折り返し時点を越えたこの人生、これからは「私」という存在を楽しもう。年をとるのは楽しい。心に余裕が持てる。人生は愉快だ。

 

オスカー・ワイルド『サロメ』 岩波文庫

分封ユダヤの王エロドは、兄の死後その妻だったエロディアスと結婚している。

予言者ヨナカーンはエロドを非難するが、王は予言者を恐れているので殺そうとはしない。

囚われのヨナカーンを恋して言い寄るエロディアスの連れ子サロメがこの戯曲の主人公だ。

ヨナカーンにはねつけられたサロメは憎しみを抱き、王にヨナカーンを殺させようとする。

美しいサロメに王は下心があった。妖艶な舞で王の心をつかんだサロメは、「なんなりと望みの物を褒美にやろう」という王の約束を盾にとってヨナカーンの首を要求するのだった。

いい男をいたぶりたい、という気持ちが女にはある。「お前の口に口づけさせておくれ」という誘惑の言葉からしてヨナカーンをさいなみたいという暗い残虐な欲望が言わせた言葉だ。囚われた男は無力であるがゆえに最高にエロティックで、サロメの心をそそる。

文学を読むということは、自分の心の深淵に降りて行くことでもある。

読んでいて、自分とまったくかけ離れた存在であるサロメの心情が、私の胸になぜかくっきりと伝わってくるのだった。とすると、こういうサディスティックな欲望というのは私の中にもあるし、多かれ少なかれすべての人の心の奥底に眠っているのかもしれない。この暗い物語が人々の心を引き付けるというのは。

西原理恵子『洗えば使える 泥名言』文芸春秋 (再読)

「やり逃げ人生」「ばっくれ人生」を座右の銘とする西原理恵子先生の味わい深い、偉人・成功者ではない人たちの名言集。

私はこの西原理恵子さんが大好き。友達になれるかはわからないけれど、書いたものを読んでも、テレビCMなどで見ても、可愛くてたまらない。可愛くて、強くて、潔い。人生を生き切ってる。同じように若くして東京へ出て来ても、私のように中途半端にうろうろして結局故郷へ逃げ帰った女とは違う。

心に刺さった中から厳選した3つの名言。

⑴人のことを憎み始めたらヒマな証拠

「この人を憎み始めたら疲れてるな」と道しるべにして、そういうときはさっさと撤退する。その日はもう、酒飲むとか映画見るとか気分転換する。

「あいつも憎い、こいつも死ねばいいのに」ってなって、帰ってこれなくなる

私もその方向に行きがちなので、気分転換する知恵は必要だと思う。最初に自分の気持に気づくことが大切だ。自覚がないとどんどんエスカレートしてしまう。そして、それは疲れているときに起こりがちだ。

気分転換に西原さんの本や漫画を読むのもありかも。

⑵いつも心に野村沙知代

「私の中に野村沙知代がいたらどうするだろう」と考える。

野村沙知代だったら、「いい嫁」である必要はないですね。ダンナや姑にとって「いい嫁」とは「いい女中」ってことですから

ほんとそうだよね! 私の場合、町会で「いい人」になろうとして悲惨なことになった。自分は右手が骨折しており夫は入院して手術という期間に、町会の仕事を押し付けられたあげく「もっとがんばっている人もいますよ」とか町会長に言われた。事情を話しても聞く耳持たない。この町会長は、打ち上げの席で私に「お酌」を強要しようとした前時代的おっちゃんだ。それはともかく、結局いったん引き受けた仕事だからと最後までやってしまった私。ああ、あのとき心の中に野村沙知代がいたら!

⑶そういうときはアメリカ大使館に逃げるんだ

どこかの国の日本大使館で、亡命しようとして逃げて来た人を追い出した映像は忘れられない。

逃げ込む場所を間違えないことは大事だ。前出の町内会長、トラブった相手のことを話して助言をもらおうとしたら相手にそれをチクって人間関係めちゃくちゃにしてくれた。あんなやつに助けを求めた自分に、「ばかやろう!」である。「とりあえず助ける」というスタンスの場所がないとき、そういう人間がいない時は、ひとりで戦うほうがまだまし。

と、ここまで書いて、アタシは「町内会長」を憎んでるんじゃ? と気づいた。もう済んだことなのに、これはいかん。

芋焼酎のお湯割り飲んで、寝よう。

 

JR御茶ノ水駅から散歩 ⑴

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御茶ノ水駅から湯島聖堂へ向かって歩いてみました。気が付いたのは、「湯島聖堂」と「湯島天神」とは別物だということ。田舎者なんで、知りませんでした。

上の写真は昌平坂昌平坂も三つあり、一つは「相生坂(昌平坂)」となっていました。湯島聖堂を囲む三つの道路がみな「昌平坂」なのだそうです。はじめて知りました。

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黒いスタイリッシュな建物。これが聖堂の入口です。合格祈願の絵馬がたくさんかかっています。

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中はこんな感じで、コの字型の建物に囲まれて広場が。度々火災にあって立て直されたものらしい。いちばん下にある「入徳門」だけは古い物だということだ。

野心に燃えた若者たちが集まっていたのか、ため息つきながらしぶしぶ通っていたのか、エスケープして悪所へ通う人もいたのか、いろいろ想像がふくらみます。

男だけだったのかな。それなら変装して男のなりをしてこっそり通う女学生もいたりして。

実際どんなところだったのか、どんな人たちが通っていたのか、いつか調べてみよう。

案内板に書いてあったのは、寛永九年に幕府がもともとあった学問所を改築して「昌平坂学問所」としたこと、明治まで官立の大学として運営されていたこと。

帰りに駅の近くの「穂高」でバナナジュースを。散歩の後はバナナジュースだと思います。

今回は湯島聖堂だけだったけれど、もっといろいろ歩くつもり。歩いて、また、穂高でバナナジュースを飲みたいです。

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『炉辺のこほろぎ』 ディケンズ作 本多顕彰訳

ジョン・ピアリビングルとメアリの夫婦の愛の物語。とても後味の良い話だ。

メアリのキャラクターがとても魅力的。明るく無邪気で疑うことを知らないかのようだ。彼女の賢さは他人を追い落としたり権力をふるうためのものではなくて、平凡な生活に命と愛を吹き込む類の賢さだ。ほんとうに人を幸せにする賢さは、そういうものだと思う。

そして運送屋のジョンも、小説中の人物ではあるが、「善き人が不幸になるはずがない」という私の池田晶子さんからパクった持論を実証する人物である。

夫婦の間に誤解が生じても彼の愛は変わらない。もしかしたらそれは短い間のことだったのかも知れないと思われる状況に至っても、その期間だけの愛と誠実さを信じる。一瞬でも疑って憎んだとしたら、その後どういう展開になろうと二人の愛は傷ついただろうと思う。彼が二人の愛を守ったのだ。

コオロギがチャープ、チャープと鳴くのが不思議。外国語って、その翻訳って、独特のおもしろさがある。

また、以前読んだときとまったく印象が違うことにも驚く。「少年少女世界文学全集」などで読んで、もう分かったと思い込んでいた私。今回日本と世界の文学を読み直すことにして良かったかもしれない。

『夢で会いましょう』 村上春樹/糸井重里 講談社文庫

m; その象はとても素敵なハイヒールをはいて地下鉄に乗っていた。

I;  仮面というコトバは、世間からなくしたい。

   急になくすと、へこみができるから、「おめん」とゆーものを代入してみようと

  思う。

 

村上春樹糸井重里がカタカナの言葉にエッセイや短文をつけていくという企画。

毎晩寝る前に少しずつ読むとよく眠れる。意味はないけれど、そこはかとなくユーモアがあって、ぜんぜん「考えさせたり」せず、心地よい。

どちらがどちらなのかはm、i の表示がなくても分かる。表題だけでわかるのもある。そういうのもおもしろい。

村上さんのハイヒールを履いた象の話が楽しい。糸井さんのは、「マスカレード」が好き。

 

『クララとお日さま』 カズオ・イシグロ 早川書房 (ネタバレありです)

その辺の子どもよりうちの犬の方がテーブルマナーがいい。犬同伴のレストランでは、ほとんどの犬が静かに座っている中で騒いでいるのは人間の子どもたちであることが多い。性格だってある種の大人よりうちのマルのほうが穏やかで愛情深く、口数も少なく、可愛い。

このごろ、自分を含めて人間って、たいして立派じゃないと認識するようになった。というか長い間、私は自分の作った「基本すてきであるべき人間社会」に住んでいて、それは架空のものだと分からなかった。私の育った家庭は(感謝の気持ちはもちろんあるが)矛盾と欺瞞と利己主義と少しの愛から出来ていたし、かなり心の拠りどころにしていた母校も実際はそんなに素敵なところじゃなかった。「リベラルな校風の母校」も「愛されて育った自分」も実際には存在していないと、最近やっと見えて来たのだ。

同時に小説や映画に出てくる「ひどい人間たち」は特殊な悪い人間なのではなく、それが人間なのだと。いい所もあるけれど、実際のところはみんな欠点だらけの利己主義な人たちで、ヒューマニズムや愛が発現するのは稀なことなのだと分かってきた。

『クララとお日さま』。この本に出てくるクララを取り巻く人間たちも、あまり素敵じゃない。

クララは人工知能を搭載したロボット(AF)の少女で、病弱なジョジーのために買われた。裕福な家庭では、子どもの遊び相手としてロボットを買い与えるのだ。とうぜんロボットだから性能に違いがあり、B3が最新式でクララは型落ちのB2である。ジョジーはクララを気に入り、型落ちを承知で選んだのだ。しかしロボットには個性があり、クララは観察力に非常に優れている。ジョジーをよく見て、一体化しようとさえしているようだ。またお日さまを恋う気持ちも他のロボットより強い。ロボットの動力は太陽エネルギーで、クララもお日さまの光を浴びることを心と体の糧としていた。

クララはほんとうに可愛くて、自分の仕事(ジョジーの傍にいて支えること)に熱心であり、いじらしいほど「自分が作られた目的」に忠実であろうとしている。

ジョジーは「向上処置」を受けた子どもで、いわばエリート予備軍だ。近所に住む仲良しのリックとは違うエリートコースが彼女を待っている。病弱で神経質な彼女の友人になるAFとして、クララは選ばれた。リックもクララもジョジーが選んだ友人だが、共に過ごせる時間は短い。

AFを持つ子どもはたくさんいるが、その関係性はさまざまだ。仲良く出来ず、嫌われているAFもいる。

ジョジーと同じように「向上処置」を受けた子どもたちとの交流会で、ひとりの男の子がクララに乱暴しようとする。ロボットなのだから大丈夫だと言ってクララをほおり投げようとするのだ。クララをかばってくれたのはリックだけだった。

ここで「向上処置」って、何よ? と思ってしまう。たぶん知力の向上なのだろうが、この「交流会」に集まった子どもたち、最低だと思う。悪い意味で人間らしい子どもたち。何が「向上」なのか。犬の方が上等だと思えるタイプの人間だ。

でもクララは何ひとつ反抗しない。AFはそういうふうに作られているのだ。でもかばってくれたリックに感謝する気持ちは持っている。状況を理解していないわけではないのだ。ただ自分のために戦うなんてことは(性能上)できないし、傍観していたジョジーに対する忠実さも変わることはない。

私にとってはこの後が辛いのだが、どんなにがんばってもクララは人間の友達ではなくロボットであり、生き物ではない。ジョジーが大学へ行くことになりその準備が進むうち、クララはジョジーの部屋を出て物置で暮らし始める。ジョジーはクララを見に来て、クララがお日さまを見れるように台を置いてあげた。ジョジーはクララをだいじに思ってはいるが、結局最後クララは廃品置き場に送られて過去の記憶を反芻することになる。ジョジーが大学へ行ってしまったとき、クララの役目は終わったのだ。「あなたはすばらしい友人だったわ」とクララは言う。

クララは自分のそういう運命を淡々と受け入れている。自分は成功したし、満足していると思う。クララはもう動かない。独りぼっちで佇むクララに、ただお日さまだけがさんさんと降り注ぐ。

正直、AFをどうとらえていいのかわからない。読後感として「これから私はお日さまと水だけで生きていこうか」という考えがちらっと頭をよぎった。光合成生活。きっと体重も減るに違いない。

でもとにかく、この物語を読み解く鍵は「お日さま」だと思う。

お日さまだけを燃料に淡々と奉仕するクララはまったく見返りを求めない。見返りを求めない存在は最後には捨てられるけれど、機能も徐々に失われてしまうけれど、まっとうした人生の記憶は成功と満足だ。クララはお日さまの光があれば寂しくない。なぜならクララそのものがお日さまだから。

本の帯に「カズオ・イシグロが創ったもっとも美しい子供だ」とあった。究極の美しさだ。しんとさみしく切ない美しさだ。

でも、あくまでも俗人の私は、その美しさを拒否したくなる。まったく文学的ではない感想だけれど、クララを捨てたジョジーは自分の子ども時代を捨てたのだと思う。(だって、動かなくなってもまだ意識はあるんだよ! )

私はこの小説を書いたカズオ・イシグロという人にとても興味がある。会いに行きたいくらいだ。他の作品も読んでみたい。