トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

70才が読んだ「マンガ版堀江貴文の『新・資本論』」(宝島新書510)

 

若い人たちのために書かれた本だと思うが、還暦をとうに超えた老人にも示唆の多い本だった。勝手に自分に引き付けているだけかもしれないが、私のこれからの人生にも取り入れたい考えが述べられていた。

p211 既存のシステムのなかの生き方って、それほど魅力的でしょうか。

この言葉こそ「既存のシステム」から卒業した老人たちに応用できるフレーズだ。

「老人」になる以前でも私は主婦業も含めて「既存のシステム」からはじき出されてきた人間だ。望んだわけではないが、私の能力ではせいぜい二次面接くらいまでが限界だった。たまに拾ってもらっても、結果迷惑をかけるだけだった。そして今やもう新聞の求人欄に自分にとって有望そうな記事は見当たらない。「就職」は、もうほんと無理。

この本を読んで、自分は方向性を間違えていたのかもしれないと思った。まず自分に向いたジャンルは何か考えることすらしなかった。なんでも可能だし、どこかに自分の椅子が用意されているものと楽観していた。そして椅子取りゲームからはじき出されても次ならなんとかなるかもと空しい希望をつないだ。探せば自分の仕事はどこかにあるかもしれないと。

五歳のとき自分が通っていない近所の幼稚園の運動会に迷い込んで参加させてもらおうとして無視された。傷ついたが、幼稚園側にすれば当然だろう。一生そんなことをやってたような気もする。関係ない園庭をうろついている間に人生も黄昏になってしまった。

でも、何も人生を諦めることはないのではないか。

p203 何も企業に就職しなくても仕事はできます。起業して自分で会社を作ればいいのです。

「起業」は私にはハードルが高いが、自分で仕事を作ることはできる。ペイしてくれる人がなくてもなんとか生活はできるので焦って就活したり時間を切り売りする必要ももうないのだ。他人のシステムにはまっていく必要はもうない、そのことで劣等感を感じる必要もないのだ。この年になったら同音異義語の「終活」に励む人も多いだろうが、それには魅力を感じない。でも「自分で仕事を作る」で、楽しんで生活できそうだと思えて来た。ささやかながら自分の人生を作っていけそうな気がしてきた。

この本は人生論ではなく「新・資本論」なので、もちろんお金について書かれているわけだが、まあ、こういう読み方もできるということ。

著者の「お金」についての定義もおもしろい。

著者の言う「お金の三大要素」は信用、投資、コミュニケーションである。

信用とは、自分自身を生かしていく自分の力のこと。

投資は、金銭的な投資だけではなく、自分にできることを他人にしてあげるとか、積極的に人に会うとか、勉強することもこれに含まれる。未来へ向けての投資だ。

すごいことでなくてよい。自分が心から喜べることを体験する、小さな成功体験を積み重ねるだけでよい。コミュニケーションと投資が「信用」をつくり出し、ゆくゆくは「お金」という形で評価されていくというのが著者の考え方だ。

しごくまっとうな考え方だ。一時期著者は「金さえあればなんでも手に入ると言っている」と喧伝されたが、違っているようだ。著者がこの本で言っているのは「お金は何かをしたい人のためにある」ということだ。

家族を養うこととか考えなくてもよい年齢になって、今まで出来なかったコミュニケーションと投資に積極的にかかわって行けそうな気がする。もしかするとそれこそが人生の醍醐味かもしれない。ラットレースの参加資格がなくなったことで逆に自由が手に入ったのかもしれない。コミュニケーションと投資をやってみたい。人と積極的にかかわることと自分が心から楽しめることをひとりからでもやることだ。私にとってそれが「信用」「お金」に結びついていくかはまだわからないが、楽しんで生活できることは確かだろう。

この本のキーワードのひとつは、「活性化」だ。著者は、一部のエリートにではなくすべての人が生き生きとした生活を送り、社会全体が活性化することを願って本を書いているのだと思う。

既得権益を守ろうとする人々が世の中の活性化を阻害している」と書かれている。「既得権益」に執着する人々はあらゆるところにいてそういう人同士固く結びついている。「趣味の会」みたいな小さなグループにも一人か二人ずつくらいいるような気がする。そこにハマろうとするときは彼らの既得権益を侵害しないよう空気を読まなければならない。たぶん私はそれが出来ない性格なのだと思う。

ばあさんになったのだから、もうそういう苦労は自分にさせまい。やたらに軋轢を生まないスキルも少しは身について来た。既得権益という幻にしがみつく人々とは違う所で楽しくやっていこうと、そんなことを考えさせてくれた本である。

 

斎藤一人『悩みはなくせる』舛岡はなゑ著より「自分を責めては絶対にいけない」

できなかった自分を罰して苦しみ続けるーーそれ、もう止めましょう。

 

心の傷がうずくのは「もっと自分を愛してください」というお知らせ。

 他人の言動に傷つくときには相手の言動に傷つくのではない。もともと傷ついている「心の古傷」がうずくのだ。自分を守ろうと必死になってしまうから、問題がなかなか解決しない。自分が本当はどうしたいのかが分からなくなっている。そのため自動的に相手の機嫌を取ってしまう。嫌な奴、イジワルをする奴にまで好かれようとしてボロボロになり心が疲れ果てて壊れてしまう。蓋をして来た自分の負の感情が人生を左右する。小さなきっかけで心の古傷が発動し、何度も何度も苦しむことになるのだ。

 

できない自分を罰して苦しむーーそれ、もうやめましょう。

 

自分を許して、できない自分にやさしくする。それが今世のあなたの修行です。

 「魂の成長とは、どんなときも未熟でダメな自分をそのまままるごと愛してあげるということを覚えること」。それができたら、許せない人も許せるようになる。しかし今はそんなこと考えなくていい。それより、自分で自分を許す。ただひたすら、自分を愛し、ゆるし、守る。

 

「自分責め」が私の得意技だ。どんなことも「私って駄目」「死んだ方がまし」に結びついてしまう。意地悪をされたら自分がダメ人間だからイジワルされるんだと思う。だってあの人は他の人には親切にしているもの。まあまあうまく行った案件があっても、ほっとする間もなく「あそこが良くなかった」という点を思いつく。反芻する。やはり最後は「私って駄目」というところへ落ち着く。

 この本はそういう私への救いの本だった。自分を責め、粗末にする人間はけっして幸せにはなれないと、この本は教えているのだと思う。

「自分責め」ってほんとに自分を蝕む。辛いと思うとき、苦しみが怒りに変わり、溜まっていくのだ。「古傷がうずく」というのは怒りの発動の一種だという気がする。ほんとに良くないことだ。もう、やめよう。

『読みたいことを、書けばいい』(田中泰延著)を聴く---「他人の人生を生きない」ということ

オーディオブックで聴いた。めっちゃ面白かったよ。

肝は「他人の人生を生きない」ということ。

どんな文章術より、「自分が読みたいことを書く」を貫く方がよいというのが著者の主張だ。がりがりの「主張」ではなく、すごく笑えるし読むことで(聴くことで)リラックスさせてくれる本だ。

読者の年代とか時代のニーズとかを必死に考えて書いても、あなたの書いた文章は「誰も読まない」と著者は述べている。

これはほんと、何十年も小説やシナリオに応募してきて、ブログも書いてみて、実際に私が痛感していること。ほんとに「誰も読まない」。

中学以来の親友ですら、百枚の原稿を「読んで」と送ってから三年間音信不通となった。「送って。楽しみにしてる」という返信が、「きっと読むから」「まだ読めていませんが」「次のお休みには読もうと」「今年中には」などと変わってきたあげくのことだ。小説を送り付けたりさえしなければ年に二、三回以上、呑みに行ってたかもしれないのに、「読まなければ」という義務感で友を苦しめ疎遠になってしまった。

友情も義理も人情も通用しない。ましてや赤の他人の文学賞の選考委員(の下読みの人)がおもしろがるわけがない。なぜなら私は「宇多田ヒカルじゃないから」。

どうせ読まれないなら好きなことを書いた方がいいというのが著者の主張だ。

他人の評価を当てにしても得られない。たまに認められると「その人にまたほめられたいと願い、苦しくなる」。「自分のために自分が読みたいものを書く、を徹底するのがよい」のだ。それなら、少なくとも一人は読者を喜ばせることができる。<書きたいことを書く>ではなく、「(自分が)読みたいことを」というのが肝かもしれない。

 この話は文章術以上のものだと思う。

「書こう」という気にさせてくれるし、人生全般に対して勇気が湧いてくる、そしてなによりめっちゃ笑える本である。

 

柿内尚文著『バナナの魅力を100文字で伝えてください』を読んで

めっちゃ腹が立った。

散歩から帰宅して「腰が痛い」と訴えているのに、夫は「うどんが食いたい」。

テレビでうどん店の食べ歩きをやっていたのだ。

もう一度「腰が痛いのよね」。

夫「しかし今から食いに出るのはめんどうだよな」。

キレた。

「腰が痛いから、ご飯の支度できません。適当に食べて」

そこではじめて「どうしたんだ?」

 

 

「はじめに」より

P11 1 人は、伝えてもらわないとわからない。

   2 ただ伝えるだけでは伝わりにくい。うまく伝えないと伝わらない。そして、

    伝え方には技術がある。

   3 言葉だけでなく「態度」「表情」も伝わるための大きな要素。

この本には、「誰にでも身につく36の伝わるための法則」が具体的にわかりやすく述べられている。

3ポイント

 ①シャイな人は自分の性格を切り離して別人格になって伝えると良い。

 ②「伝わる」は技術である。

  この本には、①の「別人格になって伝える」を含めて16の技術が紹介されてい

  る。比較、フリオチ、「ファクトとメンタルの法則」など、面白く読めて参考にな

  る。

 ③「そもそも人は人のことがわからない」(P215)

  わかってもらうのは難しいこと。そこから始める。どうしても空回りしてしまう

  ときは「あきらめる」ことも必要である。

この本を読んで自分が変わった

 自分は伝えようという努力が足りなかったかも、と反省した。足りないというより、

 はなから伝えようとしていなかったのかもしれない。

   自分の希望を述べてそれが叶えられる、叶えられないとしても少なくとも理解されるという経験が皆無に近かったからだ。はなから諦めてしまっていたかも。それでも我慢できず小さく自分だけに聞こえる言葉を発する。無視される。諦める。そんな悪循環。

 念仏のように口の中で唱えるだけでは、何度繰り返しても伝わることはない。冒頭の夫との会話は、会話ではなくお互いにひとり言を言ってただけだったのだ。

 技術というより、私の場合、まず「伝えよう」と意識することだと思った。

『アメデオ旅行記』の「アメデオ」って?

「令和のガリバー旅行記」とどこかに書かれていたが、「ガリバー」よりおもしろい。それほど皮肉にものごとを見ているわけではないが、後でじんわり「・・・」と効いてくる。絵柄が可愛いいのだが、描かれているのはどこかねじれた不気味な世界だ。そして心に沁みてくるものがある。

旅人は様々の国を訪れて何かを得、何かを学んでいく。そういう点でこれは「銀河鉄道の夜」的な作品でもある。

上下巻で13の国を旅することになる。

最初は「ロボットの国」。

ロボットの国でロボットではない本物の犬を飼っている少年。儚い命しか持たない犬を少年は「生きている間は絶対に淋しい思いをさせない」と可愛がり、とても仲良くしている。しかしある日少年は交通事故に遭い死んでしまった。亡くなった少年の傍から離れようとしない犬。そこへ元通りになった少年が元気に駆けてくる。「寂しい思いをさせてごめんね!」少年はロボットなので、バックアップデータを用いて復元されたのだ。しかし犬は……

犬の純情に胸打たれる。そして「命」についても。

切ない「道徳の国」、「平等」とは何かを問いかける「静寂の国」など、まるで本当の人生のように忘れられない人たちが出てくる。

読み進んで行くうちに、この本に描かれている微妙に歪んだ形こそが、ほんとうの世界の姿なのかもしれないと思えてくる。

私たちの思い込みや植え付けられた「常識」を捨て去れば、見えてくる世界は実はこんななのかもしれない。

ところでこの「アメデオ旅行記」の「アメデオ」とはなんだろうと思ってググってみたのだがよくわからない。

そのうち、私の頭の中に「アボガドロ定数」「モル」などの文字列が古い館の亡霊のようにもやもやと浮かんできた。それはなにか、高校時代の忌まわしい記憶、化学なのか物理なのかはっきりしないが何かそんなものの匂いがしている。

広辞苑 Amedeo Avogadro

   「イタリアの物理学者・化学者。1776~1856。アボガドロの法則を提出し、分子概念を科学へ初めて導入。」

 これ、なんか関係ありそう。と思うがよくわかりません。

『バカと無知』(橘玲著)新潮新書968 が売れる訳

P278 「人間というのはものすごくやっかいな存在だが、それでも希望がないわけではない。一人でも多くのひとが、本書で述べたような『人間の本性=バカと無知の壁』に気づき、自らの言動に多少の注意を払うようになれば、もうすこし生きやすい社会になるのではないだろうか。自戒の念をこめて記しておきたい。」

 

誰も率直に言おうとしない人間というものの本性を述べた本。その本性とは、「バカと無知」である。

この本の3つのポイント

① キャンセルカルチャーという快感がある。

  キャンセルカルチャーとは、自分より優れた者は「損失」、自分より劣った者は「報酬」とみなし、上位の者を引きずり下ろし下位の者は踏みつけにするというもの。人間にとってキャンセルカルチャーは抗しきれない誘惑である。

② 脳の基本仕様は、受けた被害を過大評価し、自分が為した加害行為は極端に過小評価するように出来ている。このことを認識しないと、自分は絶対的に正義であるとし、相手を絶対的な悪と見なして収拾のつかない事態になってしまう。

③ 集団生活では「抜け駆け」と「フリーライダー(ただ乗り)」が問題となる。

 

特に参考になったこと

 この本を読んで、今まで自分が人間関係で苦しんで来たことのメカニズムがさらっと解明された。「そうだったのか!」と目からウロコである。「はっきり言ってもらって良かった!」と読んだ人のほとんどが思うのではないか。

 世の中に理不尽な事柄があふれており、常に混乱が生じるのも、人間の本来の性質からすると当然のことなのだ。

 

この本を読んで自分が変わった点

 世の中の人たちとぶつかることが多く、いろいろ驚いたりたじろいだり自分を責めたりしてきた私。でも私に起きた問題はどれも「起こるべくして起こった当然の出来事」なのだと腑に落ちた。特に悪い人も居なかった。

 みんな、「自分が生き延びる」「自分の子孫を残す」という二つの本能に突き動かされて一生懸命生きているだけなのだ。人間もまた自然の一部である以上そのように生きるしかないのだと分かって気がラクになった。

 自分自身も別に特に憎まれる性格ではないのだろうと思った。みんな必死に生きてる、すべて自分にとってはその道が得なのだと思い込んで進んでいるのだと思う。切なくて哀れではあるけれど、悩むことでもなかったのだ、と。

 特に③の「抜け駆け」「フリーライダー」の下りは身につまされた。この二つを私は割とやってる。グループで買い物してもなぜか私だけ安くしてもらったり、景品をもらったりすることが多い。ブスで頭も悪いのに余裕のある(ように見える)生活ぶりである。みんなが我慢して従っている暗黙のルールを無意識に破って楽をしている(ように見える)。

 こういうことをしていて「みんな」から疎外されないわけがないのである。

 そうかそうかと納得した。

 だからと言って生き方を変えようとは思わない。ただ、私を気に入らない人が居ても当たり前だと分かった。「虐められキャラ」だと自認していたが、「自分の受けた被害を過大にとらえる」という脳の働きを思うと、そう気にすることもないのかも。「虐めた」人たちはたぶん、苛めたとも思っていない人が多いのだろう。忘れているかも知れない。

 これからも世渡り上手にはなれないだろうが、いろんなことを冷静に捉えることができそうだ。他人のことでいちいちへこたれる必要は全然ない。

 いろんなことが「わかる」というのは楽しいことだし実益もある。この本を読んで人間の性質についても知るのは楽しいし、実益もあった。

 ただ、世の中には、この本に書かれているのとは違う性質を持つ人間もいるし、違うところを目指している人間も多い。バカでも無知でもなく、人生を楽しんでいる人たちが、確かにいると感じている。そういう人たちは確実に増えてきているのではないだろうか。

 この著者に反論するだけの知識も論理も持たないが、なんか、そのように思えるのだ。

 

沢野ひとし『ジジイの片づけ』ー沢野ワールドの魅力

p14 朝起きて洗顔をしたら、リビングルームや机の上をまず片づける。このことをほぼ習慣にして、日課のごとく体を動かしている。

 

 沢野ひとしさんと言えば、私にとってはシーナマコトの「あやしい探検隊」の「うすらバカのサーノ」さんなので、さんづけで書かせていただくが、ちょっと馴れ馴れしいかもとも思う。シーナマコトの周辺の人々、目黒さんや木村弁護士などの本を読み漁ってきた日々が私にはある。中でも沢野ワールドには昔から惹かれるものがあった。

 変わっているけど、けっしてうすらバカなどではない。居残りさせられて教師の追及を受けてもけっして友(シーナマコト)を裏切らなかった高校生のときから変わらず一本芯が通っているし、まじめでもある。でもやっぱりどこか不思議な世界を生きている人だ。

 本書はそういう沢野ワールドを堪能できる「片づけ本」だ。

3ポイント

① 沢野さんは意外にも生活者としてきちんとしている。部屋を片付け、妻を愛し、仕事もおろそかにはしていない。アトリエの机、キッチンなどの写真を見ると思わず襟を正してしまうほどだ。こういう人だったのだ。おじさんをなめちゃいかんなと思った。

② あくまでも沢野ワールド。べたなところが皆無。美意識がある。すじが通っている。p120の種差海岸の別荘の主人のセリフ「オイ、静かにせい」のカッコよさ、「ペーパーナイフが引き出しの中にじっと潜んでいる」などの表現に惹かれる。

③ 表現がおもしろい。これは、②と重複するかもしれない。「ジジイが輝く一筋の光」など、なんか好きで、何度読んでも飽きない。

 

 おもしろい人物に会って、特に変わったことも感動もないのだけれど、見ているだけで心のどこかが快い、なんだかまた会いたくなることがある。この本は、そんな感じの本だ。

 意外にも読後あさイチで机の上を片付け、その後白湯を飲むようになった。この本で勧められていることである。なんか、気持ちいいのである。