トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

ひとりさんからの学び「出会う人は鏡」になっとく💮

以前から本で読んだりテープを聴いたりして知ってはいたことだけれど、昨日ふっとこれが腑に落ちた。これで嫌な人に遭わなくなる気がする。

周囲にいる人はみな自分の鏡である。嫌な所がある場合、自分にも同じようなところがある。同じ課題を持っているひとが近くに生まれるし、そういう人と出会う。嫌な奴ばかりというとき、実は自分にふさわしい人々が周りに集まっているだけ。

こないだまで、嫌な奴がいると、自分よりだめな人間だと見下げていた。そういう人に遭ってしまった自分はかわいそうであり、同じ部分が自分にもあるなんてとても納得できないでいた。いや私はあんなバカなことはしませんよ。あんな思いやりのない人間じゃないですよ。

ひとりさんは、「苛められている人も自分が強い立場になったら同じことをしてしまう。前世で同じようなことをやっていた」という意味のことを言っておられた。

それに対してすごく反発していたのだが、何度も同じテープを聴いているうちに少しずつその言葉が入ってきた気がする。

何度も書いてきたが、私はとても虐められるタイプで、どこへ行ってもガキ大将タイプの人に反抗して目立ち、苛められる。弱いくせにオトナシクしていられないという損な奴なのだ。声に出さないまでも批判的な気持ちが表情に出てしまう。で、叩かれる。

腹が立ってもやり返せなかった。

年を取って世間も狭くなったので、そう嫌なことをする人は周りにいなくなった。たまに遭遇しても逃げれるようになったし。

ところが記憶というものがある。悲しかった経験、悔しい思いをして泣き寝入りしてしまったことなどが繰り返し思い出され、その度に反撃できずやられるままだった自分が悔しくて苦しむ。憎しみもわいてくる。

済んだことで非常にに嫌な思いをする。

楽しいことをするとか、忙しくするとか、いろいろ工夫してみるが、「思い出」からは逃げられないのだった。

「出会う人は鏡」に、そうか! と。

記憶の中のことであっても、思い出すということはその人にまた会ってるのと同じだ。

富士山でも麓の方でうろうろしているときはたくさんの人に出会う。玉石混交だ。しかし上に上るにしたがってだんだん人が少なくなる。「散歩のついでにちょっと来ましたって奴はいなくなる」のだ。

嫌な奴に出会うってことは自分も麓のあたりでうろうろしてるってことなのか。嫌な奴に遭わないためには自分が上に行けばいいのか。

それが思い出であっても、何年もたってまだ思い出してるってことは当時と同じ場所に自分がいるってことなんだ。そういう嫌な人達と自分は同じレベルだってこと。

高速道路で自分の車がスイスイ行ってるとき、私はうれしい。でも、対向車線が渋滞していたりすると嬉しさが倍増する自分がいる。そういうとこ、がある。

強い立場になることはあまりないのでわからないけれど、もし権力を握ってしまった場合、ほんとにパワーを振るわないで済むのか、じぶん? あまりひどいことはしないとは思うが、ちょっといい気になってしまうかもしれない。

やり返すとかじゃなくて、嫌な奴がいないところへ行く。自分が進化すればいいんだ。

思い出して悔しいときは、自分もまだまだだな! と考える。リベンジとかリベンジがもう不可能だとか不毛なことを考えるより、自分が上に行くことを考えようと思う。