トマト丸 北へ!

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NHK文化センター「まのあたり句会」(2024年6月30日)に参加してみた

四月からひと月に一度俳人に会いに行こうと決めていたが、どうすれば会えるのか分からなかった件の解決策。ネットをぶらぶらしていてNHK文化センターでこの催しがあると知った。

今年のNNK俳句の選者の先生方4人(西山睦 高野ムツオ 木暮陶句郎 堀田季何)が講師という! 秋には池田澄子先生、神野紗希先生などもラインナップされているのだ。

今まで知らなかったのが悔しいようなすごい企画だ。なぜ東京中の人が参加しないのか不思議。

しかしこれで四人の俳人に会え、一挙に四か月分クリアできた。

この句会の構成は前半が先生方四人の句会で、後半が予め提出しておいた俳句の選評となっている。参加者は兼題「さくらんぼ」を一句出せる。

もちろん投句しておいたが、これが当日自分を苦しめることになるとは予測できなかった。

前半は「いつもテレビで見ている先生方が目の前におられる」というのでテンションが上がり、あっという間に終わってしまった。

それとコロナ以来句会というものに参加していなかったので、とても新鮮。

 

いろいろ勉強にもなった。とりあえずこれからは①語順 ②取り合わせ を工夫してみようと思う。

①作るすべての句について語順を変えたものを作ってみる。小さいストーリーを盛り込めるように。

②意外な物を取り合わせる。使い古されていない新しい取り合わせを作り出す。

高野ムツオ先生に選んでいただくには新しいことばを使った②が有効らしい(!)

①も②も本などにも書かれていることかもしれないが、直に聞くとすっと入ってくる。

参加者の投句作品の選評ではすべての句を取り上げてていねいなアドバイスがあり、とても参考になった。俳句に対する姿勢も伝わってきたように思う。

 

【感想】

①「俳人」というのは人柄と渋みだと思った。技術もあるけれど、俳句の魅力は作った人の魅力だ。作者の存在感が句の存在感になる。その人独自の物の観方や思考が表れていなければ俳句を作る意味はない。その個性が魅力的でなければ俳句もそうなる。

 俳人というのは食えないものらしいからもしかしたら個人的に演出された姿かもしれないが、先生方から温かさと深みを感じた。性格的に問題がある場合もあるだろうけれど、一流の俳人に「嫌な奴」はいないのではないだろうか。

 俳句を続けるなら、「自分らしく」を貫こうと思った。

②物を作るということは自分を曝すことでもある。その思い切りとそれに伴うしんどさがある。というか、やっぱり点が入るとうれしいし、入らなければ悔しい

 以前通っていた句会ではわりと点が入る方だったので、入らない悔しさはわからなかった。一点も入らなくてがっかりしている人を見ても、「せめて五七五の音数くらいそろえたらどうか」と思ったりしていた。

 今回ぜんぜん点が入らず、最後のほうでやっと堀田先生が取ってくださりめっちゃうれしかった。いただいた選評の温かさが身に染みた。それまでみじめな気持ちで坐っていたのだ。

 一方、特選に入って得意げな(に見える)若者はにくらしかった。

 たぶん参加者のほとんどが同じ気持ちだったと思う。

 最初に高野先生が「ここに来るにあたって一点も入らなかったらどうしようと心配している」と冗談めかしておっしゃったのが、この事態を見越した思いやりの発言だったのだと悟る。句会というのは点を入れ合うものだから、どうしてもこうなってしまうのだ。そして講師の点が欲しい。

 全員が自分が選ばれたい一心で来ているのだから、句会を主宰するひとはいつもたいへんなのだろうと思う。

 以前行っていた句会の選者の先生は、上手に点を割り振っておられた。たぶんちょっと贔屓もあったと思う。私が特選になるといきり立って怒っていた人たちの顔は怖かった。

 そうは言っても点を入れる入れないがないと賭けない麻雀のようなものでぜんぜん面白くないだろう。(聞いた話です)

 だとすれば句会を楽しむこつは点が入らないときの潔さ、点に対する恬淡さを養うことだろう。頭がはげるほど考えてこれはと思い自信満々で出した句に点が入らなくても、「分かってもらえなかったか!」とほどよく残念がればいい。この精神修養が作品の深みに通じるのではないだろうか。

 だんだん顔色が変わって青ざめたりして講師に気を遣わせたりしてるようでは出来る俳句も知れているのである。

③やっぱり俳句が好きだし、句会はたのしい。

 一点しか入らなかったが、終わって帰る時は楽しさの余韻があった。俳句を味わい、俳句の話を聴くのは楽しかった。どきどきしたけれど、投句しておいて良かった。