トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

テレビドラマ「ミステリと言う勿れ」21日第7話

菅田将暉の久能整が良くて良くて、毎回楽しみに観ている。今夜の第7話は格別で、ぞくぞくするほど。一つ一つの場面が心に沁みた。

早乙女太一演じる井原香音人の美しさ、そこに居るのに現実感のない儚い感じ。ほんとうにうまい。コロナが終わったら、ぜったいこの人の舞台を観に行こうと思っている。

放火殺人事件の謎を追ううちに1人の少年の壮絶な孤独感へと行きつく整。けっして人を裁かず、ただただ淡々と会話を重ねて相手を理解することにより事件を解決して行く整の魅力全開だ。

菅田将暉って、ただかっこいいだけでなくほんとに奥が深い。突き放すようでいてやさしさが沁みてくる声音、セリフ回し、クールなまなざし! 久能整のミステリアスな雰囲気、たぶん苦しい経験を乗り越えて得たと思われる共感力、洞察力、孤独、情のようなもの、すべてが表現されている。auのCMの鬼ちゃんの明るさ、NHK大河の義経の凛々しさ、どれもこれも魅力的だ。

第7話終わりごろの「陸さん、陸さん、猫もいません」というセリフが、淡々としているだけにくっと胸に食い入る。

今回整の子ども時代のエピソードが語られ、天然パーマの幼い整の可愛さにもきゅんきゅんした。アリはなぜ「蟻」と書くのか、石はなぜそこにあるのか、幼い孤独な整に「考えてみよう。考えたことを誰かに話してみよう。」と教えた女性が居た。

自分が救われたその言葉を、整は孤独な少年に与える。少年は初めて自分を一人前の人間として扱ってくれたその言葉に涙ぐむのだ。

「いろいろなことを考えてみよう。そして考えたことを誰かに話してみよう。」

私たちはそのために生きているのだと思う。

池田晶子が書いていたように、「私たちは食べるために生きるのか。生きるために食べるのか」「生きるとはどういうことなのか」、考えて、表現することが、少なくとも私にとってはそれが「生きる」ことだ。べつに哲学者や作家でなくても。ただの普通の人間でも。

テレビドラマ『高慢と偏見』と映画2本

PRIDE and PREJUDICE   1995年 イギリス制作

原作 ジェーン・オースティン

脚本 アンドルー・デイヴィス

監督 サイモン・ラングトン

キャスト エリザベス・ベネット ジェニファー・イーリー

     フィッツウィリアム・ダーシー コリン・ファース

 

このドラマを観て原作の理解が深まった。というか、実は本ではよく実態がつかめなかったのだ。原作に忠実なこのドラマを観て、原作を再読し、やっと内容がつかめた。(以前にも『ミレニアム』がちっとも理解できず、映画を観てやっと内容を把握したことがある。読解力に乏しいのだ。)

人物それぞれの性格や暮らしぶり・人間関係など、映像で見ると手に取るようにわかる。けっこうはまってしまった。

ベネット家とダーシーの「格差」も屋敷の映像を見れば実感できるし、エリザベスの魅力、ベネット家の親子関係も理解できた。

ベネット父は三女以下のメアリー、キティ、リディア、そしてベネット母(つまり自分の妻)を深く軽蔑している。軽薄さと頭の悪さに辟易してさじを投げているのだ。美しさと賢さを併せ持つ長女ジェーンと次女エリザベスの2人だけを認めている。5人姉妹の中でいちばん美しいジェーンはお人好しなほど善良でつつましい性格だ。エリザベスは個性的で品位があり、火のような激しさとシニカルな観察力を持ち、父のお気に入りである。

この父の視点がこの物語のひとつの特徴であり、人間を2種類、物の分かった美しい人種と訳の分からないわがままな人種に分けている。後者への視線は冷たい。ベネット父は妻と三女以下の娘たちを別種のめずらしい生き物のようにおもしろがるだけで、まったく教育しようとはしないのだ。それはエリザベスも同じであり、つまりは作者の人間観を表しているのだと思う。思い起こすのは『源氏物語』の紫式部だ。彼女も品下れる醜い人間に対してはとても冷酷な描き方をしている。

それはつまりは客観的ということなのかもしれないが。

でもその点を差し引いてもこの物語は魅力的だ。

魅力の大部分を占めるのはコリン・ファースのダーシーである。ダーシーを一目見て、『ブリジット・ジョーンズ』のマイク・ダーシーだ! と思った。もちろんコリン・ファースが演じているからなのだが、どちらも品位ある男の魅力があふれているのだ。それも当然で、「ダーシー」という名前が使われていることから、『ブリジット』を撮った人たちがマークに『高慢と偏見』のダーシーのイメージを重ね合わせていたことが分かる。

金と権力と地位と美貌を兼ね備えた男がそれほどすごい美人でもなく富にも恵まれず個性と人間的魅力のみで勝負するヒロインに惹かれて人間として成長するという物語。以前にも書いたことだが、少女漫画によく出てくる基本のラブストーリーだ。『花より男子』なども同じ仲間だ。もちろん『シンデレラ』も。

でも、どんなによくあるプロットでも、女の子はこういうのが好きなのだ。何度観ても、何度読んでも飽きないのだ。なぜかと言うと、すべての女の子は、多少ぶさいくであろうと貧乏であろうと、自分は「白馬に乗った王子」にふさわしいと、内心では信じているからだ。(もちろん私もごく最近までそう信じていた。)これは女としてうまれた権利のようなものだと思う。

ドラマの女性たちが着ている胸のすぐ下に切り替えのあるドレスがめっちゃ可愛い。

映画はローレンス・オリヴィエがダーシーを演じた1940年の作品と邦題が『プライドと偏見』となっている2005年の作品を観た。

1940年の『高慢と偏見』は、内容に少し手を加えられていて、最後のキャサリン夫人の訪問の意図が変わっている。これはこれで面白くウィットが感じられるが、最初に原作に忠実なテレビドラマを観ておいて良かったかもしれない。

2005年の映画は、キーラ・ナイトレイのアグレッシブなエリザベスが際立って印象的だ。そして最後のダーシーとエリザベスのラブシーンがすてきだった。ダーシーがエリザベスにうなずいて見せるところがきゅんと来る。

ただ、これらを観て、そして原作を読んで感じるのは「身分制度」というものの酷さだ。現代の日本に生きている者としてはちょっと耐え難い。同じ時代かはわからないが、昔観た映画『木靴の木』を思い出してしまう。貧しい小作人が靴の無い息子のために荘園の木を伐って木靴を作ってやる。それはすぐに主人の知るところとなり、一家は荘園を追い出されるのだ。思いやりのあるダーシーならそんなことはしなかっただろうが、主人の人格に容易に生活が左右されてしまうのは痛ましい。ダーシーの生活、ダーシーに比べれば貧しいがそれでも豊かなベネット家の生活は、こういう小作人たちの犠牲の上に成り立っているのだ。たとえダーシーのように「慈悲深い」主人だったとしても。

高慢と偏見』でエリザベスの従兄弟のコリンズと結婚するシャーロット。彼女はベネット家の隣に住むエリザベスの友達だが、財産を分けてもらう見込みもなく、また美人でもない27歳だ。エリザベスがコリンズの求婚を断ったと知り、シャーロットはコリンズに水を向けて婚約してしまう。コリンズがおバカなことは知っていたが、主婦の座と生活の安定を得るために賭けに出たのだ。

きりょうに自信がなければ「愛」を結婚の第一条件にあげることは許されないということだと思う。そして結婚は財産の無い女が生きるための就職のようなものだったのだ。

岩波文庫高慢と偏見』198ページ:「高い教育をうけた財産のない若い婦人にとっては、結婚が唯一の恥ずかしくない食べていく道であった。幸福を与えてくれるかどうかはいかに不確かでも、欠乏からいちばん愉快にまもってくれるものは結婚であった。」

現代の日本に生まれて良かった!

 

小野不由美『月の影 影の海』上下 十二国記 新潮文庫

一気に読んだ『十二国記』の三、四冊目。これがまたまためっちゃおもしろいのだ。

平凡な事なかれ主義の高校生陽子は毎夜、妖獣の群れに追われる夢を見る。最初ははるか彼方の地平線のあたりに淡い炎のように見えていた妖獣たちは夜を重ねるにつれてしだいに陽子に近づいてくるのだった。なぜか体が動かず、逃げることもできずに立ちすくむ陽子。ついに妖魔たちの表情まではっきりと見えるほど追い詰められ、眠ることが恐ろしくなる。

寝不足でつい居眠りしてしまった授業中、妖魔は陽子まであと200mほどのところにまで迫っていた。授業中にうなされて大声を上げてしまうという失態のために呼ばれた職員室に、陽子を訪ねて金髪の青年が現れる。

タイホと呼ばれるこの青年に拉致されるようにその場から連れ去られる陽子。タイホは「ここは危険です」と言うだけで何も説明してくれない。切羽詰まった雰囲気の中陽子は狒狒に似た化け物に抱えられるようにその場を逃れる。夢で見た妖獣が陽子に迫っていたのだ。

タイホや謎の女性が陽子をかばって逃げる。

陽子は「いやっ!」「逃げて!」などと叫ぶことしかできない。このままでは命が危ないと脅され、有無を言わせず銅色の毛並みのふしぎな獣にまたがって逃げるうちに、タイホたちと離れ離れになり、ただひとり海岸に横たわっている自分に気づいた。それは知っている場所ではなく、日本ですらないようだった。しかたなく立ち上がり、歩き始める陽子。

そのときから陽子の孤独な冒険が始まった。

一口で言ってしまうとなんとかタイホを探して日本に帰してもらおうと苛酷な旅を続ける陽子の成長の物語ということになるのだが、その怪奇な内容、圧倒的な世界観は実にそんなものではないのだ。

これは「読むべし」と言うほかない。

そして面白いだけでなく深い。

天涯孤独の身となり苦しい旅をする陽子は、わたしに似ている。

はじめのうち、「いや!」と叫び逃げようとするだけだった陽子は、人生の苦難に遭うとすぐに泣きごとを並べていた時期のわたしにそっくりだ。次に誰でも信用して助けてくれそうな者にはすぐについて行ってしまうという時期も、たしかにわたしにはあった。そして次々に裏切られ、もう誰も信用できないと思うところも。

しかし陽子は最終的には諦めない。「誰も惜しまない命だから、自分だけでも惜しんでやることにしたんだ」。

「それでも、二度と他人に利用されるのだけは御免だ。誰であろうと自分に危害は加えさせない。必ず、自分を守ってみせる。」という決意。

ついに陽子はなんの見返りもなく自分につくしてくれた楽俊を見捨てて立ち去ることさえするのだった。

しかし陽子は自分自身を取り戻した。

「陽子自身が人を信じることと、人が陽子を裏切ることは何の関係もないはずだ。陽子自身が優しいことと他者が陽子に優しいことは、何の関係もないはずなのに。

 この広い世界にたった独りで、助けてくれる人も慰めてくれる人も、誰一人としていなくても、それでも陽子が他者を信じずに卑怯に振る舞い、見捨てて逃げ、ましてや他者を害することの理由になどなるはずがないのに。」

「強くなりたい。

 世界も他人も関係がない。胸を張って生きることができるように、強くなりたい。」

くーっ、かっこいい!!!

この陽子の思いはすべての少女の思いだと思う。陽子がたどった道はみんなが通る道であり、陽子が最後に立つ場所は、みなが目ざす場所なのだ。

「陽子は故国で人の顔色を窺って生きていた。誰からも嫌われずに済むよう、誰にも気に入られるよう、人と対立することが怖かった。いまから思えば、何をそんなに怯えていたのだろうと、そう思う。

 ひょっとしたら臆病だったのではなく、単に怠惰だったのかもしれない」

「わたしは貧しい人間で、だから貧しい人間関係しか作ってこれなかった」

 自分はただラクがしたかっただけなのかもしれないと陽子は思う。卑怯で、怠惰だった。「生き直したい」と陽子は強く思うのだった。

この陽子の感慨は、最近のわたしの気持ととても良く似ている。それそれ、という感じだ。

また、旅の間中陽子に意地悪なことを言い続ける「蒼猿」も、実はすべての人間に取りついている化け物だと思う。不安、疑い、やり切れない思いを拡大して突き付けてくる。耳元で心を痛めさせること、自分を恥じさせることをささやき続ける者が、確かにわたしの側にもいる。最後に陽子は蒼猿を……

「あまりの面白さに夢中になって読みふけり、気がつくとなんだかむくむくと元気になっている。これはそういう物語だ。」北上次郎さんの解説の結びがすべて言いつくしている。

小野不由美『魔性の子』 十二国記 新潮文庫

めっちゃおもしろい。『魔性の子』に続く『月の影 影の海』上下を一緒に買っておいて正解だった。すぐに次が読みたくなり、読み始めると止まらないやつ。後書きで菊地秀行さんや北上次郎さんも絶賛しておられたので、我が意を得たりとうれしい。面白い本は後書きも良いのだ。

さて、『魔性の子』。これは変則のいじめの物語だ。母校に教育実習生としてやってきた広瀬は自分の指導教官の受け持ちクラスにいた高里に違和感を覚える。高里はどこか自分と同じ匂いがした。学校にもクラスにもなじめない性格、それだけではない不思議な孤独を高里はまとっていた。

クラスの子たちは直接彼をいじめるのではなく無視するのでもなく遠巻きにして、いないものとして扱っていた。嫌いというよりどこかに恐れが介在していた。

彼の生い立ちには小学生のころ一年間「神隠し」にあったという出来事があった。それ以降、彼に害をなすものには酷い報復がなされるようになった。彼自身が手を下すわけでも周囲の人間でもない、超自然的な力が働いているかのような、不思議な不運が犠牲者を見舞うのだ。

修学旅行で彼を袋叩きにした少年のひとりはフェリーから落ちて死んだ。それは事故のように見えた。彼をいじめた残りの2人も酷い運命をたどった。どの「事故」も彼とは直接にはつながらない。それでも、ぽつぽつと彼の周辺で起こる「事故」をつなげてみると彼への「加害」との因果関係がどうしても浮かび上がってくるのだ。

そういう理由で敬遠されていた高里に広瀬は興味を持った。それは、広瀬自身も高里が神隠しの間に体験した風景に似た風景を夢で見たことがあったからだ。臨死体験のようなものだったかもしれないが、とにかくどこかこの世界ではない異界を見たことがあったのだ。広瀬は学校にも家庭にも居場所をなくした高里を自宅のアパートにかくまったり、彼を見捨てた親たちに代わってめんどうをみる。感情を失ったように見えた高里もしだいに広瀬に心を開きはじめる。しかし話の展開につれて広瀬と高里はどこかがまったく違っていることが判明する。

(うーん、これって、この物語のおもしろさがまったく伝わっていない。)

ただ私が不思議なのは、高里への迫害に対する報復としてひどい目に遭う人間たちが完全な被害者として扱われることだ。彼ら自身にも世間にも、なんの反省もない。報復が過剰であることは否めないが、なされたことはいわば悪意の倍返しであり、まったく本人たちに責任がないわけでもない気がする。特に未成年の高里を容赦なく追い詰めるマスコミの人間とか、殺されるのはもちろん行き過ぎだが、ちょっとはひどい目に遭ってもいいのではと思ってしまう。

こういう感想はつまり、私が高里ではなく広瀬の同類だということなのだろう。異界から来た者でもないし、異界へ招かれる資質もない。ただのエゴのかたまり。そういう心の闇に気づかせる力がこの物語にはある。

この物語はたんなるオカルト、バイオレンスではなく、深い心の奥へ旅することのできる物語だ。気づいたら、引き込まれている。

岸本尚毅 夏井いつき『ひらめく! 作れる! 俳句ドリル』 祥伝社

俳句の20冊、3冊目も夏井いつき本。

ドリルと銘打たれているだけあって実践問題が多々出題されていておもしろく、また頭ぐるんぐるんのハードな学習となった。

これを読んで、今まで自分がいかに頭を使っていなかったか、思い込みにとらわれていたか、よくわかった。

というか、何も思いつかない。発想できないし、その転換も非常に困難という状態。私はものすごく頭が固いのである。

自分の句が、たまに佳作に入るだけでそれ以上にはけっして行かない理由がよくわかった。理由と原因がわかったからと言っていい句ができるわけではないが、少なくとも今後の勉強の方向性はつかめたと思う。またチーム裾野の十年選手として、これからも楽しく俳句とつきあって行けそうな気がしてきた。

いろいろなやり方がある。注意点も。

〇現場での一句完成

 言葉が五七五の一つのカタマリとして一時に反射的に出てくるようなスポーツ的練習。一つのものを対象として徹底的にこれをやる。岸本先生推奨。

〇一句のキモになるキーワードを見つけ、そこから連想を広げてゆく

〇(句にしようと焦らずに)言葉探しに出かける気持ちで

〇目の前にあるものの名前を一個書く……から始めてもよい

〇全体で2.0グラムと考える。季語、キーワードを1として、その他の言葉を配分する

〇季語はいったん箱に入れ、季語から離れて天地をながめる

〇同じ材料で何句も作る

〇最初に思いついたことは類想だから、それ以外のことを俳句にする

ドリルなので問題に解答するという形で練習できる。ああこうやって作るんだと腑に落ちた。practice makes perfect ということか。

多作多捨、そして多読が必要だということ。まだまだ勉強が足りなかったとわかった。

才能はないがまだ俳句に未練がある。俳句をやってればこれからも人生楽しめそうな気がする。句会で自分の選んだ特選について誉めあげるのも楽しいし。よし、もう一歩行ってみようという気持ちになれた。

虚子がいったん発表した句を推敲してさらに良い句にしている事例を見て、心打たれた。「俳人」はここまでやるのか。ささっと作って、ある程度考え尽くすとへこたれてまあいいやとなってしまう私。句会に出して点が入れば「良かった」で終わり、という。いくら「チーム裾野」にしてもあまりにもお粗末だったかもしれない。いちばん楽しいところを見事に逃していたのかもしれない。

P219 俳句に関して「そうしなければならない」「そうでなければならない」ということは一切ありません。俳句を通じて人生を楽しむこと、面白がることが目的です。

 

 

 

 

瀧島未香『タキミカ体操』 サンマーク出版

この本を開いてまず気に入ったのが製本。「中綴じ」と言うのだろうか、見開きにするとぺたんと平らになる。体操の図解が見やすく、横に置いて見ながら体を動かすのに便利だ。こういうところに作り手の心遣いが表れていると思う。

買ったのは、表紙のタキミカさんの笑顔が気に入ったから。笑顔に魅かれてぱらぱらとめくってみて、この人の経歴にびっくりした。

昭和6年生まれ。90歳の「最高齢フィットネスインストラクター」というのが肩書だ。

70歳で開脚ストレッチに挑戦。3年で実現。72歳、水泳とマラソンに挑戦。90歳で初めて本気の歌のレッスン。などなど、私がもう年だからと諦めていることを私より高齢で挑戦、実現している。特に開脚とマラソンは、もしかしたら私も出来るかも、挑戦してみようという気持ちにさせてくれた。実は前からやってみたかったのだ。

「年取ったらできないことありますよ。現実を観た方がいい」「これからは進歩はない。せいぜい現状維持」とか言う人が多いが、あまりそんなふうに考えなくていいかも、という気分になれる。気楽に楽しんだ者勝ちってこと。

しかしやはり年の功で、タキミカさんの提案は年寄ならではの叡智に満ちている。

いわく、「一日一分、一体操でも十分」「回数よりも毎日続けるほうが尊い」。この教えこそ尊いと思った。挫折の原因は頑張り過ぎることだ。高い目標を掲げると出来なかったとき心が折れる。出来なかったことがストレスになってしまい、続ける勇気が失せるのだ。タキミカさんは「一秒でもOK」と言っている。どうしてもできないときは、一秒やって、「今日も出来た」と思えばいいのだ。

「休んだ分を取り戻そうとしてがんばりすぎない」ことがだいじだと言う。

「過去のマイナスにこだわり過ぎると疲れちゃいますよね。いつだって『未来志向』でゼロから新たに積み重ねていけばいいんです。」この言葉は体操だけじゃなく人生を明るくしてくれるものだ。

「何かを継続しているということがすべてのエネルギーの源」「ハマるものがあるのが人生の幸せ」「長く生きていればいろんな時期があります。静かな時期には自分の成長のためにできることをすればいいの」

「人生の後半期にとっては、一日一日が以前よりずっと大切」「時間が進むほど人生は濃くなる」などの言葉も心にしみる。

体操についても、「人には生まれつきの骨格や身体の構造がありますから『ほどほど』で十分です」「休んでOK」「運動の途中でも休む」「強度は徐々に上げる」など現実的で役に立つアドバイスが多い。

「タキミカ体操」は、タキミカさんと彼女のパーソナルトレーナーの中沢先生が考案した、「100歳になっても動き続ける心と体」をつくることを目的にした体操だ。これは、すべての老人の望みだと思う。良いのは補助の器具も道具もいらなくて、いつでもどこでも気軽に行えるということだ。

実際に私も毎日やっているが、家でちょちょっとできるので助かっている。少しでも体を動かすと気分がよいものだ。

この本を読んで思ったのは、タキミカさんもすばらしいけれど、このタキミカさんを見出して単なる生徒から90歳のインストラクターにまで引き上げた中沢先生もすてきだということだ。「年下でも教えを請いたくなるようなすごい人はたくさんいる」と言うタキミカさんと彼女の背中を押して指導者に抜擢した中沢先生の両方がすばらしい。中沢先生がタキミカさんのパーソナルトレーナーになったのは34歳のとき。そのときタキミカさんは79歳。素敵な師弟、名コンビの2人は倍以上年が違うのだ。

これからはおっちゃんおばちゃんではなく、ちょっと年下でもなく、うんと若い人に師事することを考えてもいいかもしれないと思う。

そんなこんなでとても気分の上がる、そして実用的な本です。 

エリック・ヘミングソン『減量の正解』 下倉亮一(訳)

原題は ”THE  END  OF  DIETING” 。

私の「最後のダイエット」のテキストである。

ほんとに体重が減らない。年を取ったせいもあると思う。今までは10㎏くらいすぐに減っていた。そしてまた太る。「風船みたいに膨らんだりしぼんだりするね」と言われたものだ。でも今では膨らんだままだ。

昨年もこれぞ究極のダイエットと信じてリーンゲインズダイエットを実行した。明らかに摂取カロリーは減ってるはずなのに体重はほとんど減らなかった。ついにへこたれてやめた。

気を取り直して先月から始めたのがこの「減量の正解」ダイエット。

規律と管理と超人的な克己力を必要とするダイエットは長続きしない。

P227 もし何かに成功するために汗や涙を流さなければいけないとしたら、それは間違った方法である。

すごく共感する一文だ。ラクに続けられること、精神的な充足感を感じられるやり方でなければ、それは間違っているということなのだということ。

太っている人間は社会から圧力を受ける。仕事やステイタスに影響を及ぼす場合もあるだろう。また、太っているがゆえに蔑みの対象となることもある。そこまできびしい圧力ではなくてもちょっとしたマウントを受けることはけっこうある。

そして最悪の事態、自分自身が自分を責めてしまうようになってしまう。太っている自分、食欲に負ける意志の弱い自分、みっともない自分が嫌になり、自分を断罪する。

「P171 いちばんひどい加害者は自分自身」になってしまうのだ。

しかし「あなたは悪くない」。「P239 あなたの身体は自分自身を守ろうとしただけなのだ」。

自分自身と向き合って「P85 なぜ体が余分な脂肪を蓄えることが『必要』だったのか、その理由を知ることが重要」なのだ。

人類の歴史において、危機に陥ったときはエネルギーを蓄える必要があった。疲れたとき、寒いとき、敵に襲われそうなとき、苦しいとき。脂肪は体を守りエネルギーの素になるものだから、そういうとき必要だったのだ。

そして現代においても身体は危機に陥っていると判断するとエネルギーを摂取しようとする。現代ではその危機は精神的なものであることが多い。

P42 私たちの摂食行動は、栄養やエネルギーをとるためでなく、心理的な欲求やホルモンの影響を大きく受けている。たとえば、あわただしい仕事や人間関係、あるいは仕事から受けるストレスによって摂食行動は大きく左右される。ダイエットはこうした問題をどう解決するかにかかっている。

「P127 肥満は精神の不安定が表面に表れたもの」なのだ。

この論の展開はとても説得力がある。

私の結論は、自分の不安定な心を落ち着かせ、心と体を安心させる必要があるということだ。心と身体が安心すれば過食は避けられるはずだと思った。

P45 十分な睡眠と健全な精神がカギとなる。

「P84 体が発する声に耳を傾け、そのシグナルの意味を理解し、これまでの人生で経験した苦しい出来事を感情的かつ心理的に消化」することが必要なのだ。

つまり体よりまず先に心を解放することだ。

私がこの本を読んで考えた方法;

 ①管理や規律でなく「エネルギーをくれるもの」で自分を満たす

 ②自分を信じる

 ③規則正しい生活

 ④他と自分を比べず、好きなことに関しては「そのことをいちばん楽しんでいる人になる」ことにする。

体のケアとしては、

 ①毎日の運動

 ②十分な睡眠

 ③ジャンクフードのとりこにならない

 ④簡単なものでよいから自分で料理したものを食べる

つまりストレスを避け、ストレスに強い精神を養い、十分な運動と睡眠をとり、口に入れるものに注意する、ということだ。

1㎏ほど、今減っている。でももう体重が減ることを主たる目標にはしない。標準体重になるまでこのままの自分ではだめだとか、考えない。心と身体に向き合い、自分自身を愛し、楽しく暮らす。それで今の体型なら、それが私でその自分を(少なくとも自分だけは)いとおしんで生きようと思う。太ってる人間はだめだと思ったり言ったりする人は勝手にそう言ってればいい。