トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

一般女性は転んでも立ち上がって人生を歩き続けるーSATCキャリーの魅力

朝食はキャリーたちと一緒だ。U-NEXTで"Sex and the City"を観ながら食べてる。だいたい一本観るけれど、途中まででもかまわない。彼女たちの生き方、ファッション、表情、それぞれの個性が大好きだから「上がる」。ちょっとだけ英語の聞き取りの練習になるのではという欲もある。

キャリーの好きなところはお人好しなまでに自分を正直に表現するところだ。サマンサがビッグに言ったように、「強そうに見えても実は繊細な」キャリーが好きだ。彼女は自分を偽らない。それはちょっとやめた方がいいということでも素直にどんどんやってしまって失敗し、傷つくことになる。

彼女の素敵な所は、失敗してその失敗でダメージを受けても「私ってだめだ」とか自分いじめに走らないところだ。

キャリーは時々やり過ぎる。相手の正体を知りたいと思い、彼の私物を調べてしまったり。その現場を見つかって破局する。彼女はもちろん後悔する。まったくやり過ぎである。でも彼女はそういう自分を否定しない。男の部屋を出た後「きっとこんな私にぴったりの人がいつか現れるはず」と、しゃんと顔を上げてNYの街を歩いていくのだ。

そんなキャリーの面目躍如の瞬間。season4 第二話 素顔のままで。

キャリーはファッションモデルと一般人との共演という企画でランウェイを歩くことになる。ドルチェ&ガバーナ。さんざんためらったのだが着た服をもらえるという特典が決め手になってオファーを受けたのだ。

ナーバスな気持ちで会場へ行くと自分が「ノン モデル」と分類されていることに気づく。つまりモデルとしてではなく一般人という区分けだ。落ち込むキャリーにさらに追い打ちがかかり、試着して決めていたドレスがディオールと被るというので変更になってしまう。しかも宝石の付いた下着の上に申し訳ばかりの上着という服装だ。心配そうにのぞき込む鏡に高名なモデルが割り込んでくる。「すてきなパンティ!」とほめてくれたが気持ちは晴れない。逃げ帰ろうとするがそれもできない。

サマンサたち友人が見守る中ランウェイに登場するキャリー。大胆な服装に湧く場内。

しかしキャリーはそこで派手に転んでしまう。ヒールが高過ぎたのだ。屈辱にまみれてランウェイに這いつくばるキャリー。寄って来たカメラマン(キャリーがちょっとほの字だったハンサム)に「撮らないで!」と言う。唖然とし、同情する友人たち。

そのまま敗退するか、キャリー!?

キャリーは立ち上がる。「傷だらけで起き上がり、歩きとおす」行動を選んだのだ。彼女は起き上がり、上着の前を押し広げ気後れしていた宝石付きのパンティをぐっと露わにして堂々とランウェイを歩きとおす。作り笑顔でなく彼女らしい自信に満ちた表情だ。

スタンディングオベーションで拍手を贈る友人たち。会場も喝采に包まれる。彼女の美しさだけでなく起き上がって歩き出した生きる姿勢への賞賛の喝采だ。

柳美里『飼う人』 文春文庫

「生き物を飼うことは『祈り』に似ている」という帯の文に惹かれて買った本。

解説の岡ノ谷教授は「飼うことは自分を見つめることである」と書かれている。

寝る前に読む本がなくて一回読んで積んであったのを手に取って見ているうちに、ふと思ったのは、実用でなくペットとして生き物を飼うとき、人は自分自身を外在化して飼っているのではないかということ。

飼っている生き物は自分の魂の一部なのだろう。自分自身の一部を取り出して生物の形で傍らに置くものだ。

その生き物とのかかわり方は、だから自分自身とのかかわり方を表している。名前をつけるかどうか、可愛がるかどうか、めんどうの見方、接し方は人が自分をどう扱っているかを示しているのかも。

第一の物語の「わたし」がイボタガの幼虫を飼い始めたとき、彼女はイボタガに自分を見ていた。だから夫がそれをトイレに流してしまったのではないかと疑ったとき、彼女は夫の自分へのかかわり方を信頼していなかったのだ。

イボタガが家のどこかに生きていて成虫になれたらと、彼女は祈っていた。もしそうだったら夫を許そうと。

結局彼女は家を出る。彼女が夫を捨てたのではなく、夫に遺棄されたように感じていたからだ。

また、飼っている生き物が自分の代わりに死んでくれることもあると思う。

イボタガ、ウーパールーパー、イエアメガエル、ツマグロヒョウモン。この4つの飼いものの物語はありきたりな「心温まる」ペットの話ではない。だがそこには魂の祈りと再生が描かれているように思う。

自分のことを考えると、犬をかわいがっているのは、ほんとうは自分がそうされたいことを犬にしているのかもしれない。話しかけ、撫でさすり、いっぱい誉めてもらいたい私が、犬の形になって傍に居るのかも。

子どものころ飼っていたジュウシマツを不注意で死なせてしまった。そのとき子どもの私の魂の一部も死んでいたのかもしれない。そのころから現実と自分との間に薄い膜のようなものが介在しているように感じていた。小学生なのに、もう何千年も生きているような疲れ切った気分になることがあった。

小鳥の死は私への警告であったのかもしれない。死にたくないという自分の悲鳴であったのかもしれない。

「生き物を飼うことは『祈り』に似ている」。

森知子『カミーノ!』 幻冬舎文庫

「女ひとりスペイン巡礼、900キロ徒歩の旅」

 サンティアゴ巡礼、いつか行くつもりでいる。四国のお遍路も途中までで終わってしまったが、ぜったいに再挑戦、完歩する。

 巡礼の本をよく手に取るのだが、あまりおもしろくない。細かいことを書きすぎていたり、肝心のことや知りたいことがスルーされていたり。いちばんの難点は詳しすぎることだ。

 その点この本はもともと著者がケータイ専用サイトに毎日連載していたものなので長すぎず現場感があって楽しく読める。一緒に旅している感覚。

 予告記事の見出しは「突然ですが、夫に捨てられ旅に出ます!」。

 題名は「さらばイギリス夫、今日からひとりでファッキン巡礼!

                    ~スペイン810km徒歩の旅~」。

 いいじゃん、いいじゃん!

 イギリス人の年下夫から「あまり好きじゃなかった」と言われ家を出ていかれてしまい落ち込んだ筆者は涙の日々の中で「自分は旅に出てものを書く必要がある」と気づく。巡礼記の企画を売り込んでそれが通り、リコ活と仕事を兼ねてサンティアゴ巡礼に赴くのだ。

 めっちゃおもしろかった。

 サンティアゴ巡礼とお遍路の共通点。

  ①貝と矢印の案内板がある。(お遍路もお遍路マークと矢印が完備していて迷わずにすむ。)

  ②わりと安全、安心。(悪い奴はどこにでもいるだろうけど、基本安心)

  ③遍路宿に相当する「アルベルゲ」と呼ばれる安価な宿泊施設がある。

  ④遍路の「お接待」のように飴玉をくれたりおごってくれたりする人がいる。

  ⑤出会いがある。淡いあっさりしたものだが、心あたためてくれるものだ。

  ⑥宗教心の無い人も歩いている。(筆者がまさにそう!)

  ⑦歩き継ぎをしてもよい。

  ⑧帰りたくなくなる。

  ⑨杖を持って歩く。(遍路の場合は金剛杖。お大師様が同行してくださる。)

  ⑩小さな奇跡が起こる。(お遍路のときも、道に迷った夕暮れ、人気のない道に突然お坊さんが現れて道を教えてくれた。山道や難路にさしかかったとき、暗くなってしまったときには不思議と道連れになってくれる人が現れる。)

 けっこう似ている。

 筆者は2010年に歩いたのだが、行くときにはこの本を持って行こうと思う。この本を読むまではバスが並走してくれるツアーに申し込むつもりでいたが、ぜひ完歩したい。見渡す限りの草原をひとりで歩きたい。四国を歩いたときはあまりに人がいなくて怖いこともあったが、至福のひとときでもあった。

 スペイン語と英語の勉強を再開しよう。体も鍛えるぞ。

東野圭吾『時生』 講談社文庫

「 自分には重大な任務が残っていたことを思い出した。

  ~中略~

  これを忘れてはならない。最も大事なことだ。これを伝えなくては、彼の新たな旅

 は始まらないー。

  宮本は声をかぎりに叫んだ。

 『トキオっ、花やしきで待ってるぞ』」

 物語の結びのこの文章がよくて、鳥肌が立つくらい。

 荒唐無稽な話をここまで持ってくるなんて、作家ってほんとにすごいと思う。

 m氏のブログで紹介されていておもしろそうなので買ってきた。読んでいるとなんだか以前読んだことがあるような気がしてきた。忘れていた。でも、そのときはこれほどおもしろいとは思わなかった気がする。解説やレビューの効用だ。

 拓実という粗暴で自己中で短気などうしようもない青年がなぜか憎めず、失敗しても失敗しても、バカばっかりやっても、見捨てることができずハラハラしながら読み続けた。なんとかうまく行ってほしいと思わずにはいられない。

 やはりはてなブログで読んで買った『あの頃ぼくらはアホでした』もすごく面白かった。で、東野圭吾は若いころ拓実と似てたんじゃないかと思ったりもする。バカなところではなく、一見バカなように見えても一本筋が通っていて他人に好かれるところが。

 ふつうのまっとうな大人社会からははじき出されるタイプだが、拓実には行く先々で味方ができる。この男に好意を持ち、なんとかしてやりたいと思う人たち。裏社会の人間ですら彼に対しては人間らしい一面を見せる。そしてなにより息子に愛されている。読者ももちろん彼の味方。

 ノンストップで読ませる、そして心があたたかくなる本だった。

『高慢と偏見』ななめ読み

高慢と偏見ジェーン・オースティン 岩波文庫

ベネット家の母の人生の目標は5人の娘たちにいい結婚をさせること。

この小説の中で3人が結婚。一人はベネット氏の好意は得ているがやや難ありのとても人間らしい男。5人の娘たちの中で最も美しい長女ジェーンと最も魅力ある次女のエリザベスはそれぞれ裕福な夫を得る。ことに次女のエリザベスの夫ダーシーは、超ハンサムな上に金持ちという。

一見人付き合いの悪い高慢なダーシーが実は中身のある男であり、エリザベスはすごい美人ではないが彼の心に刺さる女。彼女にだけは「弱い」ダーシー。

なんか、少女漫画みたいな印象を受けてじっくりと読む気になれなかった。

「資産家であること」が理想の男の第一の条件というのは、現在もそうなのかもしれない。性格や容姿があまりひどくなければ、資産家であることは他の条件の悪さを十分補うと考えられる。男の方は「美人」を嫁にすることがステイタスだと考える。「美人さん」ということばで敬意を払われる。

ベネット夫人の人生の目的は娘たちに幸せな結婚をさせることだ。その第一条件が裕福であることのようだ。悪いことではないけれど。

男は金持ち(でハンサム)、女は美人。こういう話に私はどうも興味が持てないのだ。それほど美人ではないが性格的に魅力ある女性に王子様のような男が惚れてゴールインしてハッピーエンドって話にも。

「家庭小説」ということになるのだろうが、人物描写の巧みさはさすがだが、あんまり興味が持てなかった。

映画にしたらおもしろいのではないかと思って検索してみたら、1935年と1965年にちゃんと映画になっていた。映画を観てからまた感想を書こうと思う。

 

『野上弥生子短編集』 岩波文庫

1885年生まれの小説家。『真知子』『秀吉と利休』など。

解説に漱石に作品をみてもらったことが書いてあった。漱石って教師をしていたからか、人を育てることが好きだったのかなと思う。近所の少年に英語を教えてくれと頼まれてちょっと教えてあげるエピソードも読んだことがある。漱石は、弥生子の一作目は丁寧に批評、2作目「縁」を「ホトトギス」に紹介している。この話、他人事ながらあたたかい気持ちになる。

弥生子は60歳で敗戦を迎え、その後も書き続けた人だ。時流に乗るというのではなく、自分の暮らしをたいせつにしてその中で小説を書いた。この短編集の中でも戦争に批判の目を向けている。

「死」

 亡き祖母の思い出。「もともと少なかった人間らしい性質がなくなり、僻みと嫉妬と貪婪が残った」という友人の祖母の話を導入として、それとは対照的な語り手の祖母の話が綴られている。血筋からくる一族の暗い運命を一身に引き受けて次代へは残すまいとしたやさしい女性の物語だ。

 いい話だと思った。この一族ほどドラマティックなものではなくても、暗い憎しみやネガティブな感情が親から子へと伝わってしまうことがある。それを、「私のところで止めよう」と思えるのはすてきだ。

或る女の話」

 カフカを思わせる(?)不条理な話。ヒロインは次々と運命に翻弄される。

 運命を切り開くというのではなく、ものともしないのでもなく、「相手にしない」という感じ。この作品がイチオシ!

「茶料理」

 若いころの男女間の思い出。十年以上たってからの再会で、二人はその思い出の意味を解く。

 これって、現代なら単なる「友情」ですむことだと思う。家主の女性の過剰な気遣いといい、男女であるがゆえの遠慮といい、昔は不自由だったんだなと思う。「7歳にして席を同じうせず」というような隔てが普通の親しみを疑似恋愛へとねじまげてしまうのだと思う。

 でも女は友情のような恋愛のようなはっきりしない感情の揺れが好きだ。恋愛に進んでしまうよりも楽しい。恋と決まると苦しくなるが、この段階は心地よい。人生の辛い局面でそういう関係をいったん心の支えとすることもありだとは思う。

「山姥」

 山ごもりの記。今、第二の人生をこういう風に移住して過ごす人は珍しくないが、あの時代に夫と離れてでも好きな山暮らしをしているところがすてき。訪れるのではなく、暮らさなければわからないことがある。

「哀しき少年」

 ナイーブな少年が周囲に理解されず追い詰められていく。彼を追い詰めるものの1つとして「軍国主義」が嫌悪の気持をこめて描かれている。

 イデオロギーから来る反戦ではなく、たぶん「暮らしの実感」から自然に湧いてくる批判、嫌悪だと思う。そして少年の繊細な心情を追う筆力はさすがだ。

 以上が私の好きな作品だ。

 この短編集を読んで野上弥生子という作家を見直すことができた。こういう作家が生きていたことを忘れたくないし、またしばらくしたらじっくりと長編なども読みたいと思った。

 

柳美里『JR品川駅高輪口』 河出文庫

「あなたは 死にたい人?」

SNSで知り合う自殺志願者たち。その小さな人の輪は首括りの縄に似ている。

家庭にも学校にも居場所の無い少女が、ゆるやかに締まっていくその輪の中で自分をみつめている。

「うざい」とか「アホちゃうか」とか冷たいことばも混ざりながらもだんだんと話がまとまり、一緒に死のうと決める4人。互いに信頼し合えるわけもなく、腹を探り合いながらの死出の旅だ。

1人ではできない自殺がみんなと一緒ならできる。自殺という目的で知り合ったのに、こういう人に出会えていたら死など考えずにすんだかもしれないと思ったりする。

人間はこんなにも人とのつながりを求めている、せつない愛しい存在なのだ。

やさしさに飢えているのなら、死を目前にした一日という期限付きのものであっても何とかそのはかないやさしさにすがって生きられないものかと思ったりもする。

ハブられてどこの輪にも入れない辛さは、身に沁みてわかる。

主人公モネの友人「イツメン」たち。

「イツメン」とは「いつも一緒のメンバー」だとはじめて知った。

中心にいる少女は「日菜子さま」。カラオケで歌う曲も食べるものもみな、日菜子さまが決める。誰かをハブることも。

変だな、違うなと思いつつもモネは、どこかに属していたいという強い思いからそのグループにしがみついている。モネの気持はわかる。

年はとっても私もごく最近まで似たようなものだった。けっこうおもねってもいた。おもねりつつもおもねりとおせず、ふっと気を抜いた瞬間にボスに逆らってしまっていて、怒りを買って追い出される。「小学生かよ!」ってことが60過ぎてもあるのだ。それでもうグループは諦めたのだ。一緒に旅行したり、山に登ったり、それが楽しいというより「私にも一緒に行動する人たちがいる」ということで安心し、これで世間に顔向けができるような気になっていた。でも、いつもひとりになりたいと思っていた。旅の宿で個室でなくて同じ時間に消灯するのが苦痛で、夜中に抜け出して廊下で本を読んだりしていたのだ。

なんか、モネと似てるところがある。居心地の悪さが似ている。

モネは家庭でも居場所がなく、父親は浮気、母親は弟の受験のみに注意を向けている。だれもモネには関心がないのだ。モネを可愛がったのは亡くなったおばあちゃんだけ。

私も似たようなもので、無条件に可愛がってくれた人と言えば母方の祖父だけだ。

いっつも輪の外なのだ。

モネも輪の外にいる。輪の中に入る方法は自殺グループに加わることだけのように見えたかもしれない。どこにもハマれないなら、いっそ誰からも離れたところに行こうと思ったのかもしれない。

モネの物語の結末は救いなのか、新たな絶望への入口なのか、それはわからない。

英語の時間、隣の席の春奈が当てられて困っているモネにそっと教科書を見せてくれた。

「まだ自分の窮地を救ってくれる人がいるなんて……」

涙がこぼれる。自分は「生きている」と思う。