トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

私にはいいことしか起こらない

エリカさんのエッセイが好きだ。親切で明るく、勇敢な精神を感じる。

窓の側の小さな本棚に置いてときどきランダムにめくっている。

『ニューヨークの女性の「強く美しく」生きる方法』 大和書房

P23 どんな状況でも楽観的に生きる

楽観的になるのは、私には むつかしい。

過去の人生でろくなことがなかった。嫌な奴がてんこ盛りだった場所、信じられないくらい愚かな自分の行い、ミス&ミスそして上塗りのミス、抹殺したい恥ずかしい出来事、などなどで彩られているからだ。記憶力が悪い癖に過去の嫌な出来事は驚くほど鮮明に思い出す。いったんは忘れてしまっていても、モグラたたきのモグラのようにひょこひょこ頭をのぞかせて「ほらほらあんたの過去にはあんなことやこんなことが」と話しかけてくる。

で、その過去を思っても、(急に話が大きくなるが)人類全体の歴史を思い返してみても、「夢はかなう」とか「ちゃんと生きてれば不幸は振りかからない」とか、それはないと分かる。冷静で客観的理性的であれば人生は悲観的に見るのが正しいと思える。

何も悪いことをしていないのにさらわれて奴隷に売られた人たち、虐殺された人たち、差別を今も受けている人々、理不尽で理解不能なことの多いこの人類の歴史だ。平和で恵まれているこの日本に住んでいてさえ、私はすぐに転び、転んだところを踏みつけられたり、した。

楽観的になる根拠など無い。

でも最近、根拠はなくても、というか根拠がないからこそ「楽観的」なほうが得だと気づいた。というのは、そのほうが楽しいし物事がうまくいくからだ。

悲観的な私は「どうせうまくいかない」「わたしはきっと失敗する」「嫌われるにきまってる」と常々考え、じっさいにそうなって来た。そういうオーラが雨に濡れたカッパのように体にまとわりついているのだ。

帰納的に考えても演繹的に考えても「楽観的」になれる要素は1ミクロンもないのだが、では今のママ悲観的でいたとして何かいいことがあるだろうか。

悪いことが起こると心配しても、対処可能な案件はそう多くない。がんばってそれに備えても万全ではない。想定外のことが起こるのが人生でもある。

自分以外の要素は諦めた方がいいと思っている。何が起こってもしようがないと思うしかない。涙も出ない惨めさの中でもひとり立ち上がり、すりむいた膝にメンタム塗って歩き出す。ほかにどうしようもない。

楽観的になるということは、「自分には悪いことは起こらない」と信じて私設のお花畑に生きることではない。良い方向へ向かって出来る限り楽しく歩いていくという生き方だ。

P24に、ネルソン・マンデラの言葉が引かれていた。

「楽観的であるということは、顔を常に太陽へ向け、足を常に前に踏み出すことである。」

上橋菜穂子『香君』を読む

上橋菜穂子、待望の新作『香君』上・下 文藝春秋

ちょっと待って買った。美味しい料理には最後に箸をつけるという人種のように、なんだかすぐに買うのがもったいない、という。ひとたび手に取れば最後まで読んでしまうこと必至だ。未読の作品がゼロになってしまう。だから。

期待を上回る作品だった。オリエとアイシャという二人の女性像はとても魅力的だ。

物語の世界で「帝国」はオアレ稲という優れた品種の稲の種籾と肥料を独占することにより、周辺の国々を支配している。病気になりにくく、収穫量、味、栄養価にも優れるオアレ稲は多くの国を飢えから救った。また「香君」という生まれ変わりにより永遠の生命を保つという「神」の存在を精神的支柱とした。

「香君」は先代の香君亡き後、13歳の少女たちの中から選ばれる。ダライラマの転生を思わせる方法で各地の娘たちの中から探し出すのだ。しかし「香君」に選ばれることは祝福とは言えなかった。

オリエは、年端も行かないうちに権力の傀儡としてまるで人身御供のように連れ去られ「香君」という虚像として生きることを余儀なくされたにも関わらず、自分自身として納得の行く選択をしようとした。美しくあえかな容貌の奥に強い信念と理想を持っている。

アイシャは天からさずかった異能の持ち主であり、人の心情はおろか植物の訴えることまでその発する香りから読み解く。その鋭い感覚が言わせた「香りがうるさい」という言葉が印象的だった。すべての生き物は「生きたい」「幸せになりたい」と願う。「生きたい」は個々の生物としてだけではなく「種」を存続させたいということだ。

「生きたい」「種を継続したい」という望みに善悪はない。さまざまな生き物のそれを等しく感じてしまうアイシャの苦しみは壮絶でもある。

アイシャはしかし自分の異能に振り回されることなく一人の人間として自分の生きる道を探る。

オリエはアイシャのような超能力は持たない。その意味では偽者の「香君」だ。しかしその気高い精神、命かけても人々を救おうとする志はほんものだ。

アイシャは超能力を持って生まれた。「香君」に選ばれた娘ではないが、実質的な能力を持つ。その重みに耐えて、与えられた自分のギフトを人々の暮らしを良くするために使おうと渾身の力を振り絞る。

この光と影のような、二卵性の双子のような二人の人物像は見事だ。

この物語から得られた気づきは大きく二つ。

①オアレ稲に依存した帝国とその周辺の国々のように単一の作物に依存することの危険性。これは自然と人間のかかわり方の根幹にかかわることだと思う。

 人類の歴史を観ても、かつて狩猟型の社会が営まれていたときは、人々は全人的に優れており衣食住すべてをまかなう能力を個々人が持っていた。様々な動物や植物を利用しながらそれらと共存してきた。

 小麦、稲などの集約農業が始まってからは今までとは格段に安定した多量の収穫を得ることができるようになった。同時に貧富の差が激しくなり、人々の生活から多様性が失われていく。また、その作物の天敵が襲来したり病気に侵されたりした場合は、ひとつに頼っているだけに悲惨なことになる。

 この二つを比べてどちらが「豊かな生活」なのか、いちがいには言えないと思う。二者択一という問題でもない。

 そういう重いテーマをこの作品は持っていると思う。

②帝国は軍事力によらずオアレ稲の種籾と肥料を独占することで周辺の国々を支配している。経済力による支配と言っていいのかもしれない。しかしオアレ稲に依存させることを前提としている点でその支配は危うさを秘めている。軍事力を行使するよりましだとは思うが、問題がないわけではない。

 二番目は国と国の共存方法の課題だ。

 ①も②もめっちゃ難しい問題で皆が納得する答えなどない。それは物語の世界から実際の世界に目を向けてみても同じだ。

 複雑で困難に満ちた世界。勧善懲悪では解決できない世界だ。

 私たちはオリエやアイシャのように個々の進む道に悩みながらそれぞれが最善を尽くしていくしかないのだろう。そして最終的には時代が答えを出していくのだと思う。

 この壮大な物語はそんなことを考えさせてくれた。

美術展&蕎麦を楽しむ

国立西洋美術館


企画展「自然と人のダイアローグ」へ。

今日はこの2点で頭も心もいっぱいになった。

ゴッホ「刈り入れ」とクレーの「月の出」。

クレーはもとより大好きな画家で、この人の絵がある展示室に入るとすぐに第六感で「ここにある!」とわかるくらい。もうなんか、すごく、好きな絵だ。

でも今日もっとも長く時間を過ごしたのは「刈り入れ」。なぜこんなに魅かれるのだろう。

この絵を描きながらも彼は死を思っていたのだろうか。この絵の解説プレートに「しかし彼の想念は暗いものではなかった」という意味のことが書かれており、内容が心に響いた。

自死したけれど負けたんじゃない。

美術館を出てぶらぶらと上野公園散策。緑が濃い。

JR上野駅マルイの裏あたりに上野藪蕎麦がある。

サラダ蕎麦。鴨ロースト、カラっと揚がった小海老、新鮮な野菜。もちろん蕎麦はうまい。

 




バスのお出かけ、映画、モンスーンカフェ

先々週爆発してしまった。言ったことはいいのだが言い方がまずかった。しかも弱い者へとばっちりが行った。最低。

こういうときは自分のケアだ。

オタク人間ではあるが、やはり外から取り込むものも必要。隠者のような日々は快適だったが、あまり続くと良くないのかもしれない。

と言うことで、週に一日は外出しようと決めた。昨日はバスでモールへお出かけ。

久しぶりに乗るバスは楽しかった。スイカでピッとして窓際の席に座る。通り過ぎる街並みを見ているだけで心弾むものがある。景色を観つつ運ばれて行くといううれしさはバスでも味わえる。

モールに着いてぶらぶらしていたら「モンスーンカフェ」があった。一度行ってみたかったお店。満員で、少し待って案内される。天井の高い南国風の作りだ。

シンハービール、ルーロー飯、エスニックトースト、サラダ。うまい。キンドルで『夏姫』を読みながら。

中国の歴史物が好きだ。大きな時の流れの中で生き抜く人々の群像が「くよくよしても始まらない」という気分にさせてくれる。目先の欲、保身で動く人間の愚かさも身に沁みてくる。等々、本との時間を充実させながら味覚も満足。

映画は残念だった。キャストがぴったりでよく出来ているのだが、何かが足りない。主人公が結ばれる女の人に好意が持てなかった。その人は何も悪くないのだが。

綾瀬はるかさんの水泳コーチが良かった。とにかく熱心。全能力を傾けて水に賭けている。見ていて泳ぎたくなった。

先日久々に『プリティウーマン』を見たが、筋はなんでもないものなのに心浮き立つ。観た後、なんでもない日常のことが楽しく感じられる。これは「夢のあるシンデレラストーリィ」だからではない。

ジュリア・ロバーツの出演する映画はみんなそうなのだ。ジュリア・ロバーツは存在そのもので訴えかけてくるものがある。床に座ってテレビの映画を観ているだけのシーンがとても素敵なのだ。彼女がしょぼいシングルマザーになれば、その女が訴えかけているものが必ずある。女学生になればその日常のこまかな動作まで魅力的だ。

どんな人生でも生きていることは意味があると感じさせてくれる。言葉でなく存在そのもので。

『プリティウーマン』のビビアンの魅力はそのジュリア・ロバーツの魅力なのだと思う。娼婦がシンデレラになる理由はそこにしかない。

綾瀬はるかさんもそういう種類の俳優だ。昨日見た作品でも、その魅力は際立っていた。彼女に焦点を当てれば良かったのにと思う。その物足りなさだ。水中で精神の海に溺れる生徒を抱きとめるシーンは秀逸だった。交通事故のトラウマで道を歩くことに極端な恐れを感じる彼女が、パニックになりながらも生徒を案じてその住まいを訪れる。それは恋ではなく教師の使命感だ。そのあたたかさ、カッコよさ! だからこそその姿に惚れない男はアホだと思ってしまう。ストーリィ的には無理があるが、ぜひコーチのほうへ行ってほしかった。そこから子連れのシングルマザーへ行くなんてあり得ない。

そんなことを考えながら帰りのバスに乗っていた。

 

 

俳句の20冊ー4冊目『型で学ぶはじめての俳句ドリル』

『「型」で学ぶはじめての俳句ドリル』 夏井いつき 岸本尚毅  祥伝社

 俳句の20冊の4冊目。

 夏井先生が「チーム裾野」とよく書いておられるが、この本で「俳句が百年後も富士山のように高くて美しい山であり続けるために必要な豊かで広い裾野」と説明されていて、おお! と思った。そうか、取るに足らない句をせっせと作る毎日だがそれは自分以外の人間にとっても意味のある営みなんだな。

 夏井先生の言葉は読む者を「豊かで広い裾野」へ連れて行って放し飼いにしてくれる。その夏井先生と岸本博士(と呼びたくなる博識と明晰な分析力)とはよいコンビだ。互いに敬意をはらいつつあくまでも率直な真摯な会話でどんどん作句の世界へ切り込んでいく。

 この本を読んで思ったのは、「とにかく歩き回ることを楽しめる人」(P42)になろうということ。歩き回り、「頭を空っぽにして見たままの俳句を」を作ろうと思う。「日が照って風が吹くかぎり発電できる」という岸本博士の言葉に力づけられた。岸本先生ご本人は「外から入ったものを加工するやり方」で長年やって来られたとのこと。それもありなんだ。

 とはいえ、すこしはひとの心に刺さる句を作りたい。

 この本からつかんだヒントは、「3音か5音分のオリジナリティかリアリティ」を目指すということ。今まではただ自分の感じたことをそのまま表現してきたので、類句が多かった。平凡だし、季語の説明になってることも多い。季語と出会うことによってそのものに初めて向かい合い、感動して作る。自分にとっては初めての出会いだが、皆さんにとっては先刻ご承知、二番煎じということになる。

 でもどこに気を付け、どこへ向かえばいいのか分からなかった。〇がついても偶然いいものが出来たかという感じ。次はまた没句になってしまう。「3音か5音分のオリジナリティがリアリティ」と明確に言ってもらってハッとした。

 近しい人で良い句を作る人を見ていると、人間としての格の大きさがやはりものを言うように思う。技術だけでは追いつかない部分が大きい。人間が出来た分だけ言葉も光ってくる気がする。

 でも工夫の余地はある。

 これからだ(と思いたい)。

 

『巡り会う時間たち』を観る


U-NEXTで『巡り会う時間たち』を観た。2002年USA、スティーブン・ダルドリー監督。

1923年英国リッチモンドヴァージニア・ウルフ、1951年合衆国ロスアンゼルスのローラ・ブラウン、2001年ニューヨークのクラリッサ・ヴォーン。3人の女のある一日が同時進行で描かれる。3人をつなぐのはヴァージニアが執筆し、ローラが愛読している小説『ダロウェイ夫人』だ。

3人の女は外から見れば幸せな成功者だ。ヴァージニアは作家であり、クラリッサは編集者、ローラは優しい夫と息子を持ち妊娠中。しかし3人とも内面は苦しみに満ちている。

ヴァージニアは刺激の多すぎるロンドンでの暮らしに疲れ自殺未遂、記憶喪失、気鬱などで苦しみ、夫の配慮で田舎暮らしをしている。しかし彼女の精神的苦悩は内面から来るものであり、静かな暮らしはかえって彼女を苦しめる。愛する夫も仕事も彼女を救わない。

友人のケティによれば「女の幸せのすべてを手にしている」ローラも内面は満たされない。『ダロウェイ夫人』の渇き、苦悩へとどうしようもなく惹かれる。幼い息子は母を失う不安にさいなまれる。彼を預けて立ち去る母を窓に顔を押し付けて見送る姿はいたましい。

クラリッサは編集者として成功し、同性の友人と暮らし、人工授精で得た娘も快活に育っている。しかし彼女が「生きている」と感じられるのは、若き日のひと夏を恋人として過ごし、今では友人である作家リチャードと一緒の時間だけなのだった。リチャードはエイズに侵され、心も体もボロボロ、生きることに喜びを感じない。

『ダロウェイ夫人』を執筆しながらヴァージニアは死を思う。ヒロインを死なせるストーリーを考えつき、それを止めるが、代わりに「詩人」が死ぬことになる。

『ダロウェイ夫人』を愛読するローラも死を思っている。息子を預け、ホテルへ行って薬を飲もうとする。

リチャードも死を救いのように感じ、死へあこがれている。

ヴァージニアもローラも、その愛は報われない。ヴァージニアが愛する姉も、ローラが愛する友人ケティも、内面を持たず現実の世界に生きている。その点ではヴァージニアを理解できず疎んじている使用人たちと同じだ。彼らは彼女たちを理解しない。彼女たちは、トニオ・クレーゲルが美しくはあるが内面は平凡な美少女にあこがれたように、姉やケティを愛しているのだ。クラリッサはその両方の世界にまたがる人間で、リチャードから愛され、彼を愛しているものの、現実の世界と折り合いをつける人生を選択している。

私はこの映画を、愛すること生きることへの大きな疑問符のように感じた。

完璧な疑問は完璧な答えでもある。

たとえばヴァージニアの入水は、夫と共に生きるための入水だった。家族を捨てたローラも、「死より生を選んだ」と言っている。リチャードの死もクラリッサと自分を生かすための死だったのだろう。

何と言うか、命をかけて生きるとでも言うのだろうか。他人から幸せねと言われることを幸せとせず、世間に認められることでもなく、自分の内面に忠実である生き方が提示されているように思った。自殺や世間からの逃亡をも辞さないことでしか得られない生、そういう生を生きることでしか幸せを感じられない生き方だ。でも、そこにこそ希望はある。

『ダロウェイ夫人』、未読なので今度ぜひ読みたい。

ひとつ嬉しかったのは、映画の中でヴァージニア・ウルフが机につかず椅子に座り画板のようなものを膝に置いて執筆していたこと。私が使っている膝置きの木製スタンドによく似ている! 私って、ヴァージニア・ウルフしてたんだ。

船井幸雄『一粒の人生論』をオーディオブックで三度聴いた

楽な気持ちにさせてくれた二つの考え方。

⑴世の中のすべてのことはマクロで見れば良くなる方向へ向かっている。

⑵すべては必然、意味のあることである。

 「マクロで見る」というのがだいじだと思う。

 人類は進歩していないと言う人もいるが、どう見ても良くなってる気がする。

 昨日今日、去年今年の範囲で見ると逆行しているような気もするが、大きな流れを見れば確実に良くなっているのだ。黄河は西から東へ流れているが、部分を見れば逆に流れているところもあり、淀んでいる場所もある。大勢としてはでも、確実に下流へと進んでいるから心配しなくていいのだ。

 これを読んで気がラクになった。⑵はよく言われることだ。⑴、⑵、共にそれで気がラクになるのであれば信じてさしつかえないことだと思う。

 他に「嫌なことをがんばらず、好きなことをする」「他人を批判しない。できれば包み込む。無理ならスルーする」など、実用的ないい言葉がたくさんあったので、三度聴いた。少し飽きてきたので、また折を見て聴こうと思う。朝の散歩の時などに聴くと気持ちが明るくなる。