トマト丸 北へ!

本と映画、日々の雑感、そしてすべての気の弱い人たちへのエールを

ちきりん『多眼思考』を読んで開眼した

ちきりん『多眼思考』 大和書房

気になったところ、開眼させてくれたところ

014 「誰と時間を過ごすのか」は、「何をするか」とほぼ同等。(もしかしたらそれ以上)に大事。

 これはとても共感する。高級料理を嫌な奴と食べるより一人で本を読みながらファストフードを食べる方がましだ。だから、嫌な会合には行かない。ガイドブックに載ってる店でも、それまで贔屓にしてる店でも、嫌な接客があったら行かない。いばりながら提供されるのはごめんだ。

 いっぽう、何もしなくても、おもしろい会話がなくても、一緒に居るだけで心満たされる関係は最高だ。そういう間柄の人とは時間や空間を隔ててしまってもつながりが切れない。いつでも存在を感じることができる。

050 「思考力がある、ない」とか言うけれど、ちきりんが思うには、大事なのは「どれだけ考えたか」つまり「思考の量」です。「思考力の高い人、低い人」がいるのではなく「ナンも考えていない人」と「すごく考えている人」がいるだけ。

 これは目からウロコだった。考えることを諦めちゃいけないと思う。

 またここから敷衍して、読解力のある人と無い人がいるわけでもないのではと考えついた。難解な本に当たって玉砕し自信を失うことがあるけれど、読み解ける人というのはじっくりと読み込んだ人なのではないだろうか。読解の所要時間が短い人と言うのは、その手の本に慣れているだけなのかもしれない。始めはわからなくてもしつこく読み込んでいった経験があるだけなのかもしれない。

 自分の能力を見限り、そのためにいろいろ諦めるなんてくだらないってこと。能力に違いがあるとしても、上を見ればきりがないし、下を見て慢心するのも愚か。あまり周囲を気にしないといいのかも。

205 「バランスなんてとってるとおもしろくない」ってのは、人だけじゃなくて企業も同じなんだよね。「すべての人に満足してもらえる商品」とか作ってると、めっちゃおもしろくない商品になる。尖った商品、偏った特徴のモノにみんな惹かれる。」

 なるほど。そうかもしれないと思った。

 私の俳句が他人に響かないのも、そういうことかも。「尖る」。私の辞書には無いことばだった。

221 隣接する国はたいてい仲が悪いし、多くの場合、領土問題(国境問題)を抱えています。そういう問題が存在しない隣国関係が当たり前であり、問題は解決されなければならないなどとは思いこまないほうがいい。世の中、そんなもんなんです。

 この下りも目からウロコ! 問題があるのが「普通」「常態」なのだと考えたほうがいいのか、と開眼した。

 隣国を隣人と言い換えてもいいと思う。親族や家族も同じ。人間同士が隣接するーつまり利害関係を伴っているとき何の問題もないなんてあり得ない。近しければ近いだけ軋轢が生じるのだ。

 たとえば愛し合って結婚した共働きの夫婦。夫婦こそシビアな利害関係が生じる。家事についていっぽうが楽をすれば他方の負担が大きくなる。子どもが熱でも出せば「どちらが仕事を休むか」で当然もめるだろう。これが一緒に暮らしていない他人ならまったく争う接点がないわけだから問題も起こらないわけだ。

 何も無いなんてあり得ないと思った方がいいのだ。

 ご近所だって、「良い方ばかり」なんてあり得ないと思った方がいいのだろう。

 ここに書き抜いた目からウロコの文、こういうこと他の本にはあまり書かれていないように思う。「私のまわりはいい人ばかりです」「こうすればうまく行きます」「私はうまくやってます」的なものはよく目にする。「ああそうですか。良かったですね」としか言いようのない文章が多い気がする。それに比べてちきりんが言い切ってくれることはすごく参考になる。

 ツイッターの発言をまとめた本だけれど、通して読んで、ちきりんという人がわかって来た気がする。正直、さすがだと思った。

 

不朽の名作=ヴィクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』をオーディオブックで聴いた

「生涯尊敬できる者と出会うこと、また全身全霊をかけて愛せる者と出会うこと、その両方を得たジャンバルジャンはきびしい人生ながら、この上なく幸福であったと言えましょう。」

 ジャンバルジャンの死に際して贈られた言葉が胸を打った。

 貧しさゆえに一切れのパンを盗んだジャンバルジャンは家族を案じるあまり脱走を重ねて結局19年間も投獄されていた。釈放されたものの寄る辺の無い彼を救ったのはミュリエル司教だった。貧しい客のためにこそ使うのだと言って銀の食器で彼をもてなす。しかしジャンバルジャンは銀の食器を盗んで逃亡する。

 ジャンバルジャンを逮捕して連れて来た警官にミュリエル司教は「その食器は差し上げたのだ」と言う。「この銀の燭台を忘れて行きましたね」と銀の燭台まで差し出すのだ。ミュリエル司教の無私の心、それよりもなによりも彼の中の善なる心を信じてくれたこと、あなたはもう更生していると言い切ってくれたことがジャンバルジャンの胸を打ち、苦難に満ちた人生を生き抜く力となったのだ。

 もう一人、コゼットがいた。貧しい母フォンティーヌは強欲で残忍なテナルディエ夫婦にだまされて幼いコゼットを預ける。身軽になって身を粉にして働き、コゼットの養育費を仕送りする。しかしテナルディエ夫婦はその金を着服し、コゼットを虐待してこき使っていた。ついに病に倒れ亡くなったフォンティーヌのためにジャンバルジャンはコゼットを救出、愛を注ぎ、養育する。

 警官のジャベルはジャンバルジャンの更生を認めず、「世間をたばかる元囚人」として追い続ける。ジャベルにとっての「法と秩序」は富栄えている者たちだけのためのものだった。ジャベルはそういうものを守ることが自分の使命だと思い込んでいたのだ。

 フランス革命に続く激動期のパリで、ジャンバルジャンとコゼット、革命を志す青年マリウス、ジャベルの運命が交差し、ぶつかり合う。

 小学生のころ「世界文学全集」で読んだ『ああ無情』は印象的だった。アン・ハサウェイの美しさが印象的な映画「レ・ミゼラブル」も良かった。やはり原作が名作だからだと思う。

 このオーディオブック版はコンパクトになってはいるがジャンバルジャンとジャベルの確執に焦点を当てて非常におもしろく、心揺さぶる作品になっている。充分に満足できた。

 

山本健一『利休にたずねよ』をオーディオブックで聴いた感想ー高麗から来た女の魅力

この作品を映画でも観た。

海老蔵の利休ははまり役だしいい映画だったが、利休の心に食い込んで離れなかった高麗の女がやはりちょっと残念だった。坐った形などほんとうに美しいのだが、原作のイメージとは違うという気がした。超然としているはずがにらみつけているように見えてしまうし、捉われてもなお屈しない姿がただ嫌がっているように見えた。

高貴な女性だ。政争に巻き込まれ、貴族の身分でしかも宮中へ上がることになっていたにもかかわらず、さらわれて売られた女だ。囚われの身となり異国である日本へ連れて来られた。それでも毅然とし気品を失わない。

このイメージを生身の女性が具現するのはほんとうにむつかしいと思う。利休が救おうとして果たせず自ら殺した女だ。利休は年老いて非業の死を受け入れざるをえなくなってもなお心の中に大切にその面影を抱いていた。年月を経ると共に彼の心中でますます気高く美しくなっていったのだ。

これは演出や女優さんの問題ではなく、実写の限界だと思う。本を読んで得たイメージと映像が異なるのはあたりまえだ。

言いたいのは、それほどこの物語の高麗の女は魅力的だということだ。彼女はその生き方で、一期一会を利休に知らしめたのだと思う。利休が生涯胸に抱き続けた彼女への憧憬は、彼が追い求めた美へのそれに他ならない。茶道の美学を象徴するものだ。

利休切腹の日から日を繰ってだんだんと遡り、高麗の女のなぞが少しずつ明らかになるという構成がとても良かった。この物語を聴いて私の心に残ったのも、高麗の女の毅然とした美しい姿だった。

夕暮れに紛れてしぼもうとしている木槿の花のように淡かった姿がしだいにひと塗りひと塗りされて際立っていき、最後にそのあでやかな姿がくっきりと読者の目前に立ち現れる。何があろうと膝を立て背筋を伸ばして高雅に座る彼女の姿は利休の心に食い入ったと同じように読者の心にもしるく刻まれるのだ。

高麗の女の謎と同時に利休の茶道の真髄、秀吉との確執も浮かび上がってくるわけだが、もちろんそれらは根のところでつながっており不可分である。

物語全体が悲劇であり、高麗の女の運命もまた悲劇である。

見方によってはこれほど惨めな境遇もないと思う。それでも彼女は自分を保ち続けた。利休の他の女たちは彼に頼り、彼の意にかなうことを生きるすべとしてきた。高麗の女の不羈の姿とは根本的に異なる。王者秀吉についに膝を屈することなく、あくまでも自分の美学に忠実に生きた利休の姿は、高麗の女の生き方に通じるものがある。有為転変など関係ない人の尊さ。利休の目を通してこの女を描き切ったことがこの本の値打ちだと思う。

牧師ミツコ『74歳、ないのはお金だけ あとは全部そろってる』(すばる舎)が心なごむ

 宗教に対してどうも懐疑的になってしまう私だが、この本を読んで心和んだ。この人の生き方がすてきで、信仰というハードルを乗り越えることができるならプロテスタントの教会へ通いたいくらいだ。

P167 街をひとりで歩くのが楽しみ

 「こんなとき、私はひとりで行きます。誰にも気を使わずに好きなだけ本を眺め、好きな道を歩きます。」

 これと、お昼寝が好きというところが私と同じで親近感を感じる。

p161 71歳からプール通い

 「かなづちを克服しようと公営のプールに通いました。」

 とても共感した。70歳くらいから新しいことを始めるというの、ほんとにいいと思う。頑固に固まったりしないしなやかな精神を感じる。私も、もう2~3年したら、何か新しいことを始めたいと思う。

p156 「いろいろな人と関りを持ったほうがいい」

 教会を中心とした彼女の人間関係はとても豊かだ。週2回は説教もし、教会での集まりに参加して、心配事を持ち込む人の話を聴いたりもしている。

 質素に暮らしてはいてもけっしてケチではなく、娘たちとの週一回の会食に食事を作って持参したり、教会へ来れなくなった高齢者を見舞ったりしている。「人のために少額でもお金を使う」とし、お世話になった人にお返しも忘れない。食事をふるまったりもする。その反面、孫たちにはお小遣いをあげないという姿勢。とても潔い。

 筆者は現在公営のアパートに一人暮らしだが、自立しつつも他者との関りを大切にしているのだ。これは私のはるかおよばないところで、素直に反省したいと思う。うらやましくもある。

 思ったのは、私と違って寄りかかろうとしないから豊かなのではないかということだ。娘たちとももたれ合わない関係だ。助け合いなどを、もう少し広い範囲で考えておられるのだと思う。

 私は、甘えられないからいっそ一人でいよう、煩わしいから離れようと、この人に比べるとけち臭い。ボランティアなどについても考えさせられた。

 残りの人生、70代からは「人とかかわる」ことも試みてみたいと思った。

 「苦しかったこと」として40代のころの夫婦の不和のことが書かれている。また、「常に相手に対して一歩引く」けれども「我慢はしません」とし、「相手との関係は常に対等でありたい」とも書かれていて、すごく正直な人だと思った。「私の中にも、人よりも上に行きたい という気持ちが根本的にあるのです」と述べたり、すばらしい夫でした、などと無理に理想化しないところが逆に魅力的なのだ。この人はほんものだと思う。

p158の「できるだけ集中した結果、よいことがあったというエピソード」は、ほんとうにすてきだ。心が純粋できれいなのだと思った。

 こういう人が生きているといことを知るだけで心がなごむ。

ちきりん『自分の意見で生きていこう』を読むーこの不確実な世界でつぶされないためには「意見を持つ」ことが必要だ

『自分の意見で生きていこう』 ちきりん  ダイヤモンド社

3つのきづき

①人生における大切な問題にはどれも唯一の正しい解答などない

 この不条理不確実な人生における正解のない大事な問題について自分の意見を明確にできなければ、自分のオリジナルの人生を作っていくことができない。

 ここのところで私は考え違いをしていたと思う。「正しい解答などない」という点まではちきりんと同じ考えだった。絶対ということなどないと思った。その先を間違えてた。「言い切る」ことを恐れ、あらゆる問題についてニュートラルであろうとし、あらゆる問題を先送りにしてしまったのだ。正解の無い世界で唯一の正しい答えは「解答しないこと」だと思ってしまった。間違わないためには回答しないこと、何もしないことだと。

 こんな腰の引けた人生がひとつの実りももたらさなかったのは言うまでもない。間違うことが怖いから何もしないというのでは。行動を迫られて追い詰められるまで何もせず、ぎりぎりになってから世の風潮に流されるというのが私の人生だった。結果が出ることが怖くて行動できなかった。

 また、そういう環境でもあった。何かをすることよりも我慢することの方が正しいと言われて育ってきたのだ。もちろん、こうまで不甲斐ない生き方を他人のせいにすることはできないけれど。

 こういう風にのんびりやっててうまく行く人もいるかもしれない。流れに任せてOKと言うケースも。でも私はそうではなかった。うまく行かなかった。

 今思うと、うまく行かなくて良かった。遅くはなったが、否応なしに自分と向き合うことになったからだ。あちらでもこちらでも頭をぶつけたり、ぶたれたりしてきたけれど、やっと、ようやく、自分というものを見つめる気になれた。そういうときにこの本と出合った。実にタイムリーだった。

②(うまく主張できないとき)足りないのは言語能力や表現の力ではなく思考そのものである場合が多い。

 <こんなときにはこう言い返そう>というような<話し方、主張の仕方>の解説を目にすることがあるが、書かれているフレーズをそのままに言い返したとしてもほとんどうまく行かない。言葉をなぞるだけではさらに言い返されるのがおちだ。

 P74に「どんな意見なのかということより、それは本当に自分の意見なのか? が大切なことだ」とある。

 考えた末の自分の意見だったら、それが腹から出た言葉であれば、インパクトがあるし一歩も退かないでいられるだろう。(しかし借り物の意見やただの思い付きでも強く主張する人もいるからインパクトだけでは信用できない。その場合は勢いに惑わされないで少し掘ってみることが必要だ。)

③反応と反論の違い

 ここの部分、ほんとうにおもしろかった。読んで初めて気づいたことだが、「あるある」である。

 反応と反論の違いは「ポジションをとっているかどうか」にある。

 P197「意見なのか反応なのかを見分ける基準は、その発言により『発言者のポジション=立ち位置が明確になっているかどうか」です。

 「一概には言えない」「例外もある」などともっともらしく言う人、ほんとに多い。また、残念なことにそういう人が前向きな意見をつぶしてしまう場合も多い。この本に書かれているとおりで、それがどんな意見であったとしても会話として成り立ってしまうのが「一概には言えないでしょう」などの反応だ。この下りにはちょっと笑えた。

これからの行動のヒントになったこと

⑴よく考える

 あらゆる問題について、よく考えようと思う。「今現在差し迫ってはいないことについて考えることが大切」なのだとも書かれていた。はっとした。

⑵ただすなおに自分の「こう思う」を言葉にすればよい

「『個』としての自分を認めさせるためには、あなたと他の人を区別するための情報を提供すること」が必要だと書かれている。

 私が今までどこのグループからも仲間として認められなかったのは、ひとつには自分の情報を他人に与えまいとしてがんばったせいもあるのかもしれない。個人的なことを聞かれるのが苦手だ。たいていの場合マイノリティである自分の意見を表明するのが怖い。ずかずかと人のプライバシーに踏み込んでくる人の言いなりになる必要はむろんないが、アルマジロのように固まってしまう私もよくなかった。

 自己開示ができない理由は開示するべき自己がはっきりしないからかも。何についてもしっかりと考えてはいなかった。

 意見を言うことや自己開示を恐れる気持ちの後ろには恐れがある。意見が違うのはあたりまえ、他人と自分が違うのはあたりまえなのに、違うことによって居場所を失うような気がしていた。育った家庭とか所属した集団とか、違うものは排斥するというシステムの場所にずっと居て過剰適応してしまった側面もある。

 でもアルマジロになっていても結局仲間には入れず気味悪がられるだけだった気がする。ほんとうの自分を分かってくれる人も現れない。現れようがない。もし気の合う人がいたとしても互いにそれとわからないわけだから。

⑶「自分の意見の束」によって自分という人間がどのような人間かを自分で理解する

 自我の確立 ➡ 肯定 ➡ 開示 ➡ 外部からも承認をもらう 

 この一連のステップを踏んでみようと思う。おもしろそうだ。そして私には失うものもない。自分を失ってまでしがみつかなければならない集団など無い。今の日本は外れ者でも生存できる。

 私って、どんな人間か、自分で実はよくわかっていない気がする。いろいろなことに対して自分の「意見」を明らかにしていくことによって、自分という人間がわかってくるかもしれないと思うとわくわくもする。

 また、ひとつひとつの事案を考え尽くすことによって行動も変わってくるかもしれないという期待もある。自分の中で確信が持てないから行動がブレてしまうのかもしれない。

P175 「まずは自分の意見を明確にすることにより、自分で自分をしっかり理解する。それがすべての始まりなのだということを忘れないでください。」

 こんなふうにブログを書いているのも、無意識のうちに「自己肯定感」を得ようという願いがそうさせているのかもしれない。

 ブログサービスがあってよかった。書くことがあってよかった。

ドストエフスキー短編『クリスマスと結婚式』をオーディオブックで聴くー世界に悲劇は絶えない

『クリスマスと結婚式』 ドストエフスキー 米川正夫訳  オーディオブック

 「無名氏の手記より」とある。

 語り手の無名氏は、とある結婚式と行き合う。彼は5年前の出来事を思い出す。

 5年前、語り手は大みそかの夜に子供の舞踏会に招かれた。子どもの会というのは口実で、実際には親たちがさまざまな思惑の伴った雑談をするのが目的のようだった。子どもたちのクリスマスプレゼントもそれぞれの境遇、主催者の思惑によりはっきりと差別されたものだった。

 主催者の家庭教師の息子は一番最後に挿絵もない薄っぺらな本をもらった。ある少女は美しい人形をもらった。その少女は裕福な実業家の娘で、その年でもう30万ルーブリの持参金を約束されているのだった。

 貧しい少年と富裕な家に生まれた少女は気が合い、人気のない部屋で人形で遊んだ。

 この会の主賓はユリアン・マスターコヴィッチという実力者だったが、5年はたたないと結婚年齢に達しないこの少女に、数年後には利息がついて50万ルーブリにはなるであろうその持参金ゆえに興味を持ち、話しかけるのだった。彼は邪魔をするなと言って少女の側にいた貧しい少年を追い払おうとさえするのである。

 その後少女の両親がこのユリアン・マスターコヴィッチにすり寄ってお世辞を使う様子が語られる。

 ネタバレになるが、語り手が見た結婚式はその子供の舞踏会から5年後の、あの少女とユリアン・マスターコヴィッチのものだったのだ。花嫁は明らかに泣きはらした目をしていた。

 なんともやりきれない話だ。この「無名氏」もいきどおるでもなく、少女に同情するでもない。舞踏会の夜ユリアン・マスターコヴィッチが貧しい少年に酷い扱いをしたのを目撃してもただ隠れて見ているだけなのだ。結婚式についても、最初には「立派なもので気に入った」と言い、花婿がユリアン・マスターコヴィッチだと分かったときの感想は「それにしても胸算用があざやかにいったものだな!」なのである。

 語り手はユリアン・マスターコヴィッチを皮肉りあざ笑うが、貧しい少年や悲劇の花嫁に同情する言葉はないのである。この話を書いたこと自体が世俗への批判なのだろう。でも物足りない気がする。

 これが世の中。こういうこと、今までもこれからもたくさんあるのかも。結婚とまではいかなくても金と権力が結びつき人間の優しい気持が踏みにじられることは。

 ひとつ、オーディオブックの欠点に気づいた。読み返すのがむつかしい。ぱらぱらとめくって人物の名前や込み入ったいきさつを確認したりはできない。ロシア語の名前は覚えにくいのだ。

オーディオブック『年収1億円になる人の習慣』山下誠司著で覚醒?!

自分よりずっと若い著者の本を読むのが楽しい。とても勉強になる。人間はどんどん進歩しているのだという気分になれる。

この本も良かった。フェラーリに乗りたくて、かっこよくなりたくて、億万長者になりたくて、そういう自分の欲望に忠実に、誇りを持って進んで行った若者の物語。吹っ切れれば欲望は人を高めてくれる、そんな話だ。

参考になったこと三つ。

①時間とお金は目的につながることにのみ用いる。

 目的がはっきりしていなければできないことだ。でも、この覚悟は必要だと思った。

 このままでのんびり行きたいと思っている人はそれでいいと思うけれど、目指すところがある人は、取り入れるべきだ。人生は短い。

②最初の10年間は休まない。ほんとにそのことが楽しくてやりたいことなら、それに集中するべきだ。

 毎日が仕事、毎日が夏休み好きなことをやってればそうなのだと思う。著者はほんとに仕事が好きなのだと思った。いや、そこまでやるから好きになったのかもしれない。

 「休みは無い。ローギアとハイギアがあるだけ」。ギアチェンジはやっぱり必要なのだろう。

 それと「休まないから仕事が楽しい」というのも腑に落ちた。やりこまなければほんとうの楽しさはわからないということだと思う。

③質よりスピード

 「一流ではスライディング意外は遅刻」という言葉が印象に残った。

 私など、とりかかりが遅くて人生淀んでしまっている。失敗が怖いからだ。モラトリアム人間だ。それじゃだめなんだ。失敗するまいとして人生、取りこぼしまくってきた気がする。

 「行動が先」「期限を決め、量をこなすと質の向上につながる。」(この順番がだいじ)」という言葉も心に響いた。

 特に私にとっては「期限を決める」ことがだいじだ。

生活に取り入れたこと三つ

⑴締め切り一週間前(少なくとも3日前)に提出する

 作品は途中で終わり、数作しか完成していない。何一つ応募していない。俳句も締め切りぎりぎりに投句して迷惑をかける。間に合わないことも多い。「ぎりぎりまで考える」のが良いと思っていた。しかし実際はぎりぎりに取り掛かるのが癖になっているだけだ。精神衛生上も良くない。フライングくらいのロケットスタートに切り替えようと思う。

⑵休まない

 毎日が夏休みだからこそ意識して休むことが必要だと思っていたが、完全に休むのではなく、特にだいじなことについては必ず一歩か二歩は前進しておくことにした。休み明けにゼロからスタートせずに済む。と言うか、完全に休んでしまうと実際にはマイナスからのスタートになってしまうと気づいた。

⑶人の悪口を言わない。聞かない。

 これを決めてすぐ、ネットに嫌な記事が上がった。ある役者の関係者がその人を貶める書き込みをしているというもの。今までの私だったら、好奇心で内容を調べてしまってさらに嫌な気持ちになっていただろう。怖いもの見たさと言うが、「嫌な物見たさ」ということが私にはある。

 でも、決めていたので検索しなかった。気分が悪くならなくて良かったし、時間も無駄にしなかった。

 悪口を言うのはその真偽に関わらずそれを言う人の人格を貶める行為だとも思った。その関係者のタレントはたぶん嫌われる。痛ましいとも感じた。とにかく私は、もうそういうことからは離れる。そう決めた。

 すごく元気が出る本だ。この本はオーディオブックで「聴き放題」だった。聞き放題リストで見なかったら読まなかったかもしれない。「聴く生活」、楽しくていい。

 もう年だからって年寄同士つるんで消化試合のような時間をだらだら過ごしている人たちもいるけれど、(誰かの言いなりになって従い「仲間がいる」という安心感に浸って)心の中ではマウンティング合戦をしてる人たちの仲間に入るのは嫌だ。年収1億円は20代から始めなければ無理だろうけれど、老い先短いからこそ時間は貴重だ。私の場合、目的に向かって進むことが楽しい。ただ今までは臆病で腰が引けていたから成果が上がらなかった。この本は結果を出すこととそういう人生の楽しみ方を教えてくれる本だ。がんがん読んで、書いて、楽しんで生活できればいいと思っている。だらだら過ごしていては楽しさが逃げるのだ。

 この本で覚醒したと言ってもいいと思う。

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