トマト丸 北へ!

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「THE GREY 凍える太陽」を観て人生の愛と戦いを思う

2012.監督 ジョー・カーナハン

アラスカのツンドラ地帯でのサバイバル・アクション。主演、リーアム・ニーソン

ハッピーエンドではない。飛行機事故で過酷な大自然の中に投げ出された男たちが狼の群れや寒さや食料の不足に苦しみながら南を目指すが、一人、また一人と倒れていく。

普通の映画なら、最後に狼の群れをやっつけるか、そこから逃れるかするのだが、この映画では大自然の前に人間は無力で、奇跡も起こらない。

飛行機事故の前のオットウェイが狼を仕留めるシーンは暗示的だ。そこでは銃器を持つ人間が最強の動物であり、狼に勝ち目は無い。しかしツンドラの中に孤立無援で投げ出された瞬間から立場は逆転し、人間が獲物として狩られるのだ。

オットウェイは家族を失った過去を持ち、孤独な人生に生きる意味を見出せないでいた。でも、生死の境目に立たされると、やはり生きようとして必死になる。そして仲間を全て失い、たった一人で狼と対峙したとき、不意に生きる意味に気が付くのだ。

「闘って死のう」ということだと思う。

自然と人間の戦いは、人生の戦いの象徴として描かれている。そこでは強者が生き延び、敗者は死ぬ。勝者と敗者は時に入れ替わり、いつまでも勝ち続ける者はいないし、敗者がその運命から逃れることもない。

それなら生きることは無意味なのだろうか。

そうではない。一つの意味は「愛」であり、もう一つは「闘う」ことだ。

失われた愛の思い出はオットウェイを苦しめるが、しかしそれは彼が生きた証であり、その思い出は何物にも奪われることはない。彼のものだ。

また、たとえ勝ち目のない戦いであろうと、戦うことそのものに意味があるのだ。どんな強者であろうとも、その「闘う姿勢」を奪うことはできない。

生き物の死亡率は100%だ。生き物という言葉そのものが、いつか死ぬものであることを意味している。しかし、生きて、愛して、戦ったことの価値は掛け替えのない貴いものであると思うのだ。

道端の小さな一本の草でさえ、そこで生きて行くために戦っている。自由に飛んでいるように見える鳥も、池の小動物も、生死を賭けた戦いを生きているのだ。

私も、私であるために戦っている。もう終わりが近づいているのかも知れないし、心身共に強い奴らに蹂躙されることも多い。弱っちい奴なのだ。でも、それでも私が愛し、戦うことの意味を私から奪うことは誰にも出来ないのだと思う。

最後にオットウェイが単身狼のボスに立ち向かおうと身構える姿にしびれた。(リーアム・ニーソン、素敵!)ハッピーエンドではないが、勇気が湧いて来る作品だ。